fc2ブログ

廃墟を旅する 

産業遺産や戦争遺跡、時を超えた郷愁への旅路へ・・・

【戦争遺跡】高島の海軍戦争遺跡

ほとんど情報のない小さな島の海軍戦跡

高島の海軍戦争遺跡
高島資料1
 高島という島に『四階建て』と呼ばれる謎の戦争遺跡がある。自分がこの情報を耳にしたのは確か某テレビ番組だった。
 それから地図を調べ、当時の記録文書を調べたが、手に入ったのは地元新聞がこの戦跡を取材した時の記事だけで、この戦跡が何のために造られたのか、また、誰が作ったのかといった情報は断片的な地元民の記憶のみといった状態だった。
 ならば、実際に行って確かめるより他はないのである。
 実際に島に行ってみよう。そう思ってから数か月、遂に上陸を果たし、この謎の戦跡調査を開始するのだった。


 前置きはこのくらいにして、この島の位置関係を説明したい。上記の図は高島と周辺地域の位置関係図だ。
 高島は長崎県平戸市、平戸島の南西端に浮かぶ小さな島だ。現在の人口は僅かに40人。漁業が主産業で集落以外は断崖と森に覆われている。この島の東に目を転じると佐世保市が存在する。佐世保と言えば帝国海軍の一大拠点であり、鎮守府や海軍工廠をはじめ、様々な海軍関係機関が所在した場所だ。どうやらこの辺りに高島の戦跡に関するヒントがありそうだ。

 ここで事前に説明しておきたいことがある。実はこの島から離脱する前に、戦時中のこの島の事や戦跡に関して実際に目撃した島民の方から貴重な証言をいただいた。なので、その方が語った高島戦跡や戦中の記憶は赤字で表記する


高島資料2
 上記の図は衛星写真から見た高島の『四階建て』だ。当然ながら通称であり、地元の方がそう呼んでいる。
 地元の方の証言では、この戦跡を構築したのは太平洋戦争真っ只中の1943年(昭和18年)であり、構築した組織は「佐世保防備隊」だという。構築には島の人たちも駆り出され、海砂を何回も現場に運んだそうだ。
 そして兵隊は当時200人ほど駐屯しており、この『四階建て』は防空見張所で頂上に対空砲を据える台座があるという。確かに写真からは頂上付近に丸い台座が確認できるが、はたしてどうなのか。
 これ以外の戦跡も必ずあるはずだと自分は考え、この『四階建て』を核心として周辺を探索してみる事とした。


001_taka.jpg
 この島に渡る手段は釣り船で運んでもらうしかない。宮之浦漁港から約5分で目的の島に到着する。

002_R.jpg
 運んでもらったのは「丸銀釣センター」さんの釣り船だ。初めて釣り船というものに乗ったが、めちゃくちゃ早い!
 船長さんに高島に何しに行くのかと聞かれ、『四階建て』に行くのだというと、あ~あれね、といった感じで、地元では有名な構造物らしい。しかし、詳しい事は何もわからない。


006_Rtaka.jpg
 直ぐに高島が見えてきた。

007_R.jpg
 そして、島の左側、断崖の上に目的の『四階建て』が姿を現した。こうして自分の目で確認すると、それが幻でも何でもなく、現実にそこにあるのだと実感できる。

011_R.jpg
 やがて船は高島の集落に到着した。静かな、というか人の気配がほとんどしない入港である。

012_R.jpg
 漁船はおよそ5時間後に迎えにくるようだ。この島で探索できる時間は約5時間。全力を出すときは今である。

013_R.jpg
 上陸してすぐに『四階建て』の方向に歩き出す。明確に道が解っているわけではないが、この際直観に全てをかけてみる。
 見える海は平戸島の南、当時この海域を帝国海軍の軍艦が佐世保軍港に出入りするために航行していたのであろう。


014_R.jpg
 海岸沿いに舗装された道がある。

015_R.jpg
 この道をいけばどうなるものか、危ぶむなかれ、行けばわかるさ。

016_R.jpg
 道から眼下を見ると様々な物が落ちている岩場が見える。この中には当時の物も混じっているのだろうか。
 よく見ると猫がいるのだが、お分かりだろうか?


019_R.jpg
 さてしばらく行くと『四階建て』とは違う建造物が見えてきた。この島にはどうやら海軍が駐屯し、施設構築行っていたようなのでこれもその一つだろうか。

020_R.jpg
 錯雑地の中に踏み込んでいくと、建造物の基礎部分が現れた。

022_R.jpg
 さきほどの建造物の方向に進んでいると、前方に嬉しい塊が見えてくる。

024_R.jpg
 間違いなく、軍の境界石だ。

025_R.jpg
 「海軍用地」とはっきりと刻まれた境界石の存在は、この場所に間違いなく海軍部隊が存在した何よりの証拠だ。

026_R.jpg
 さらに進んでいく。

028_Rtaka.jpg
 人工物らしき物が見えてきた。

029_Rtaka.jpg
 入口がある。おそらく当時の物で間違いなさそうだ。

030_Rtaka.jpg
 内部は何もない。がらんとしている。屋根もない。

031_R.jpg
 小便器が落ちている。この場所は暫定的に「兵舎」としておこう。

032_R.jpg
 天井から青空がのぞく。

034_R.jpg
 レンガの積み方にはいくつか種類があるがこれは「イギリス積み」のようだ。このレンガの積み方でもある程度年代を測定することが可能だが、今回は解らない。

036_R.jpg
 入口から再び外に出る。

037_R.jpg
 近傍に便所が確認できた。先ほどの小便器もここの物だろう。

038_R.jpg
 一升瓶。ほぼ例外なくどこの戦跡でも存在する。当時の兵隊も酒を飲んで一時現実から目を逸らしたのかもしれない。

041_R.jpg
 さらに近傍に水の溜まった構築物が出てきた。

042_R.jpg
 形状からどうやら貯水槽のようだ。

044_R.jpg
 ふと見上げると、木々の隙間から目指す『四階建て』が確認出来た。

045_R.jpg
 拡大してみるとより形状がはっきりしてくる。側面に階段が付いているようだ。

043_R.jpg
 石垣がある。これも当時の遺構だろうか。

048_R.jpg
 不意にコンクリートが現れた。これは道だと考え先を辿ってみる事にする。

049_R.jpg
 丸いレンガの付いたコンクリ破片。雨どいか排水管だろうか。

050_R.jpg
 明らかに排水用の設備だ。

051_R.jpg
 お!コンクリの壁だ。

052_R.jpg
 どうやら建造物を囲う塀のようだ。

056_R.jpg
 そして入口の門と思われる遺構が姿を現した。

057_R.jpg
 そして複数の一升瓶。

053_R.jpg
 塀の内部にはやはり建造物が存在した。

061_Rtaka.jpg
 草が生えて解りづらくなった建造物の入口から内部に入る。

062_R.jpg
 内部はもはや自然に帰っていた。

063_R.jpg
 僅かに当時の意匠が確認出来る。

069_R.jpg
 唯一残った部屋がある。

070_R.jpg
 どうやら便所のようだ。

073_R.jpg
 便所は建造物の中でも頑丈に出来ているそうで、いざとなったら便所に逃げろと聞いたとこがあるような、無いような。

075_R.jpg
 先ほどの建造物の正面に別の建造物がある。こちらは割としっかりと残っているようだ。

076_R.jpg
 内部には何もないが、床も天井も現存している。

077_R.jpg
 何もない窓から自然光が差し込む。

078_R.jpg
 壁に何かの跡がある。

081_R.jpg
 棚でもあったのだろうか。

083_R.jpg
 庭には謎の石組み。貯水槽にも見えないので観賞用の池のようだ。これには少し平和な感じが伺える。この建造物は戦中ではなく戦前に建造されたのではないかと考えるのだが、いくつかの証拠がそれを裏付けてくれそうだ。

084_R.jpg
 外に出る。

088_R.jpg
 炊事用の施設があった。

089_R.jpg
 煮炊きするための場所。どうやらそれなりの人数がいたようだ。

090_R.jpg
 建造物外観。このように意匠の富んだ物を戦時中に造るとは考えづらい。戦前から海軍部隊が駐屯していたと考えるのが自然だろう。
 島民証言:この建造物は「兵舎」であり、当時偽装からか屋根が青く塗られていた。そのことから『青兵舎』と言われていた。


091_R.jpg
 さあ、いよいよ『四階建て』は目の前だ。

093_R.jpg
 その姿がよりはっきりと見て取れる。四階建てというが、これ下の部分はただの台座ではないか?

096_R.jpg
 道中井戸を発見。

098_R.jpg
 錯雑地を抜けて視界が開ける。広がる海は対馬海峡方面だ。

099_R.jpg
 そして、舗装された道は無くなった。待ってましたとばかりに再び藪漕ぎが始まった。
 とにかく目に見える目標へ向け突き進む。


100_R.jpg
 だが、またもや違うものが目に入る。崖の上に明らかにコンクリート製の人工物があるのだ。
 これは、もしかしたら観測所かトーチカでは?と思い、先ずはそちらに行ってみる。


101_R.jpg
 後方には上陸適地など皆無の断崖が続く。

103_R.jpg
 藪漕ぎスタート!

105_R.jpg
 すると直ぐに人工物発見

106_R.jpg
 かなりしっかりとした壁だ。

107_R.jpg
 コンクリートとレンガで何重にも増してある。

108_R.jpg
 やはりイギリス積みのレンガ。

110_R.jpg
 これは「弾薬庫」なのではないか?そう思ったのは特殊な造りと、兵舎からの距離や立地からだった。
 島民証言:『四階建て』近くの建物は「弾薬庫」だ。


111_R.jpg
 内部に入ってみる。

112_R.jpg
 入り組んでいるがいくつかの部屋になっているようだ。

113_R.jpg
 内部も自然に侵食されている。

114_R.jpg
 一部に当時の木材が生きていた。

115_R.jpg
 基本的には壁のみで何もない。

118_R.jpg
 もう古代遺跡と化している。

120_R.jpg
 窓の外からも容赦なく木が入り込む。

121_R.jpg
 ということで「弾薬庫」を後にして、藪漕ぎ前に見えたコンクリ製構築物までたどり着いた。
 はたして何であるか。


122_R.jpg
 !!
 これは間違いない!砲測弾薬庫だ。形状と戦跡の現状から対空陣地だと思われる


124_R.jpg
 近傍であるものを探す。

125_R.jpg
 あった。これは砲床。高角砲を据え付けるための土台だ。状況からボルト等は解らない。
 一つあったら四つはあると思え対空陣地!次を求めて隣に移動する。


126_R.jpg
 そしてそう通りに直ぐに次を見つける。砲測弾薬庫だ。

127_R.jpg
 かなりしっかりとして大きい。それなりの高角砲が据え付けられて居たものと推測できる。

128_R.jpg
 これも砲床の一部だ。

129_R.jpg
 砲測弾薬庫内部。板張りにコンクリを流し込んだ跡がある。これは戦中または末期の急造品の特徴だ。
 つまり、さきほどの兵舎より後、戦中にこの対空陣地は構築されたと推測できる。


131_R.jpg
 コンクリの材質は細かい砂が多く使われているようだ。これら材質から、戦中島民が駆り出され、海から海砂を大量に運んだとする証言と一致する。

133_R.jpg
 二つの砲測弾薬庫が見て取れる。この中心に砲があったのだろう。

134_R.jpg
 構造が良くわかる綺麗な砲側弾薬庫

135_R.jpg
 中心の土をどけてみると、お目当ての高角砲据え付け部分が現れた。

136_R.jpg
 円形の構造で、金属製だ。

137_R.jpg
 砲と台座を繋いだと思われるボルトも見て取れた。

140_R.jpg
 砲側弾薬庫から横に石垣が構築されている。

141_R.jpg
 土留めの役割を果たしているのだろう。

142_R.jpg
 石垣を見て進んでいると、目の前に『四階建て』の入口が現れた。
 これを見るために九州の先端まで来たのだ。一端対空陣地の探索を辞め、『四階建て』へと侵入する。


143_R.jpg
 入口付近。門などは何もない。

144_R.jpg
 入口から上を見上げる。無機質なコンクリ製構築物からは先ほどの兵舎にあった遊び心は感じられない。時局の切迫した状況が建造物から感じられるのだ。

145_R.jpg
 内部へ。

148_R.jpg
 窓からの眺望。ここからは佐世保に入る艦船や航空機が一望に見えるだろう。

149_R.jpg
 そして平戸島南端の山々も視界に収めることが出来る。

151_R.jpg
 天井には碍子。これは電灯や電気機器の存在と、発電設備の存在の両方を教えてくれる存在だ。

153_R.jpg
 窓から見える景色

154_R.jpg
 部屋の端に階段がある。これで上に行ける。

155_R.jpg
 床に散らばるコンクリの破片

156_R.jpg
 どうやら全体は鉄筋コンクリート造らしい。鉄筋やコンクリを豊富に使用し構築された建造物。重要な施設だった可能性が高い。

157_R.jpg
 コンクリの間にレンガ。

158_R.jpg
 壁にレンガ。これは長手積みというレンガの積み方だが、かなりいい加減なように見える。それだけ余裕が無かったということだろうか。

160_R.jpg
 取り付けば橋と橋脚の様子。『四階建て』と向こう側の間は崖となっている。

161_R.jpg
 狭い階段を上がり二階へ。
 この時点で気づいたが、やはりこの建造物屋上まで入れても三階しかない。なぜ『四階建て』という通称になったのだろうか?


163_R.jpg
 二階の明かり。

164_R.jpg
 二階より階段を見る。

165_R.jpg
 二階の部屋の様子。ガランとして何もない。『四階建て』は見張所兼兵舎と伝わっているようだが、兵舎なら立派なのが違う場所にある。この場所はもっと違う用途に使用されていたのではないか?

166_R.jpg
 部屋の奥より階段方向を見る。

167_R.jpg
 外付け階段へ出るための扉から外へ。

168_R.jpg
 ベランダになっている。ちょっと怖い。

169_R.jpg
 外壁を見てみると雨どいを設置するための金具が見えた。

170_R.jpg
 階段を登って屋上へ。

171_R.jpg
 そしてあらわれる謎の台座。

173_R.jpg
 屋上にはこの台座一つであとには何もない。これを対空砲を据え付けるための台座だと伝わっているらしいが、本当にそうだろうか。

174_R.jpg
 台座の中心には円形の跡。そして真ん中の円は空洞になっており、階下に抜けているようだ。

175_R.jpg
 何かを据え付けたボルトがある。これは対空砲の物だろうか?
 島民証言:『四階建て』の屋上には対空砲があったのではないか?


176_R.jpg
 台座には無数の機銃掃射の跡が刻まれている。米軍は戦中この建造物の存在を知っていたようだ。
 島民証言:戦時中グラマン(米軍艦載機)の空襲が一回だけあった。その時『四階建て』は被弾した。グラマンは2機編隊で飛来した。


177_R.jpg
 この建造物が米軍にとって邪魔な存在だったということか?

179_R.jpg
 私見の結論をいうと、この『四階建て』はレーダー(電探)施設だったのではないだろうか。防空用電探をこの台座に据え付け、敵空襲に備えるため、また、佐世保軍港に緊急警報を送るための施設と考えると、この場所にこれだけ巨大かつ堅牢な施設が構築された理由に納得がいく。さらに、台座の中心の形状も、内部が空洞な理由は配線が通っていたためではないか。電力供給能力があったことは間違いないので、電探があったとしても不思議ではない。
 これら重要な施設を護るために、海軍は後方に対空砲陣地を構築したのではないだろうか。


180_R.jpg
 しかし、当時の文献が見つからない今、この考察は推測の域を出ない。
 全てを知っているのは、この『四階建て』のみである。


181_R.jpg
 ある程度満足のいく考察が出来た時点で、そろそろ次に行く時間だ。

183_R.jpg
 もう一度だけ、台座から見える風景を見ておく。
 もう二度と見ることが出来ない風景かもしれないのだから。


184_R.jpg
 島民の証言にあるように、『四階建て』の壁には機銃掃射の跡がいくつも残っている。

185_R.jpg
 これらは当時から今に伝わる戦争の生き証人である。

187_R.jpg
 『四階建て』台座部分。鉄筋コンクリート造とは言え、もう70年以上の時が過ぎた。近くない将来に何もしなければ崩壊することは確実だろう。

188_R.jpg
 さて、後方の対空陣地の探索を再開しよう。

189_R.jpg
 先ほどの対空陣地と明らかに違う構造の壁だ。

190_R.jpg
 かなり分厚く丁寧に構築されている。

191_R.jpg
 その先に穴が開いていた。直径にすると2.5mほど。これは砲塔ターレット(砲基部を入れるための穴)だろう。
 つまりかなり大きな高角砲が配置されていたのか。


193_R.jpg
 やはり先ほどとは異なる砲側弾薬庫だ。

194_R.jpg
 連なるように一体で作られている。

195_R.jpg
 奥行きはあまりないが、その分かなり分厚い。

196_R.jpg
 高角砲陣地事態もかなり大きいように感じる。

197_R.jpg
 これは連装砲があったのではなかろうか。
 海軍の主力対空砲は(四十口径八九式十二糎七高角砲)があるが、これは単装砲と連装砲存在している。この形状の違う対空砲陣地は据え付けられた砲の種類が単装と連装と異なっていたための計画仕様の変化なのではないだろうか。


198_R.jpg
 詳細は解らない。情報を持っている方がいたら是非とも教えていただきたい。

高島資料4
 上記が『四階建て』を中心とした対空陣地の配置図である。

206_R.jpg
 さて、『四階建て』を後にして、向かったのは島の最高点である。この場所にはかつて兵舎や対空機銃陣地があったと証言がある。
 島民証言:山頂には兵舎や対空機銃とその台座、炊事場や風呂まであった。


207_R.jpg
 山頂付近には破片が散乱する。あきらかに爆破処理の痕跡だ。戦後に施設を爆破したのか?しかし、島民はこう証言する。
 島民証言:兵舎や機銃陣地は爆破されている。それをしたのは日本軍自身だ。進駐軍や戦後の事ではない。


208_R.jpg
 なんと日本軍自らの手で施設を破壊したというのだ。どうしてそのようなことになったのか。

209_R.jpg
 話を聞くと興味深いことが解った。この島の価値は大戦末期には失われていたようなのだ。
 島民証言:対空砲は終戦前に取り外され、決戦正面(本人談)に再配置されるために移動した。


210_R.jpg
 つまり、本土決戦を目前に控え、対空防御の必要性より砲を対着上陸の為の海岸砲台に使用するために移動させたということだ。これが事実なら島の価値は失われ、兵員も大幅に削減される。そして、使用されなくなった施設は米軍に使用される恐れもあるため、自らの手で爆破処理したのではないだろうか。

211_R.jpg
 だとしたら少し残念だ。この場所には立派な遺構が存在していたかもしれない。

212_R.jpg
 巨大なコンクリの塊が目の前に現れた。

213_R.jpg
 下部に穴が開けられている。

214_R.jpg
 内部を見ると貯水槽のようだ。これも使用出来なくするために下部に穴を開けたのだろう。

215_R.jpg
 撤収時に施設を破壊するのは常套手段だ。当然行うだろう。
 この穴は指向性爆破薬で行ったのか、それとも手作業か。


216_R.jpg
 こちらは炊事関係の施設のようだ。

217_R.jpg
 まともに残っているのはこれと貯水槽くらいだ。

218_R.jpg
 ちなみに山頂対空機銃は撤収前に試射を行ったらしい。
 島民証言:戦中山頂に備え付けた機銃は試射を行った。


219_R.jpg
 全ての探索を終え、下山途中に最後の遺物を発見した。境界石である。

220_R.jpg
 (海十五号)と刻まれている。

221_R.jpg
 そしてしっかりと(海軍用地)とある。やはり高島は海軍の島なのだ。

222_R.jpg
 探索終えて、集落へ戻る。もうすぐ迎えの船の時間だ。

223_R.jpg
 学校の近くを通る。かつてこの島にも学生が居たのであろうが、今は校庭もあれている。
 この島に過去何があったのかを知る人は、もうほとんど残っていない。


231_R.jpg
 船に乗り込む前の数十分間、偶然島民の方と話す機会を得て、貴重な高島の戦争の話を聞いた。この小さな島の戦跡が、佐世保地区にとってどのような意味を持っていたのかの一端を解き明かすヒントをいただいたようだった。
 そして、対戦末期の惨状もお話してくれた。
 島民証言: 高島を空襲したグラマン2機は宮之浦漁港をそのまま空襲した。当時そこには軍に徴用された小舟が存在し、それが被弾炎上した。負傷した兵隊が高島に運ばれ、傷だらけの兵隊が民家で風呂に入る場面等を目撃した。負傷した多くの兵隊は亡くなった。自身は空襲時、民間で掘った防空壕に入っていた。
        高島から佐世保に向かう100機程の大編隊の艦載機やB29爆撃機を目撃した。その時高島からの砲撃は無かった

 まさにこの上空を佐世保に向けて敵の大編隊が通って行ったのだろう。今は青い静かな空が広がるばかりである。


233_R.jpg
 以上が高島にある戦争遺跡探索で判明した全てである。おそらくこれ以外にも戦跡はあるのだろう。伝わるところによると、探照灯や対潜水艦用の聴音所もあるようだ。しかし、時間は有限だ。もう帰る船が来る。

234_R.jpg
 高島に眠る謎の戦跡『四階建て』。それは海軍の重要な施設だったのか、それとも対空見張所だったのか。本当のところは謎のままだ。しかし、多くの戦跡がこの島にある事だけは事実であり、戦争はこの島にも痕跡を刻んだのである。

236_R.jpg
 また訪れる事が出来るだろうか。そんな事を考えつつ、帰路の船に乗ったのである。

高島資料3
 最後に高島戦跡の配置図を掲載する。参考までに見ていただきたい。


参考文献等
〇 長崎新聞(2005.10.01)戦争の記憶9 高島の「4階建て」終戦の年、激しい空襲
〇 Wikipedia 四十口径八九式十二糎七高角砲


【掲載廃墟一覧】
【戦争遺跡一覧】
今までに旅に出た廃墟と戦跡の一覧です。

にほんブログ村 写真ブログ 廃墟・廃屋写真へ
にほんブログ村
ランキング参加中。上のバナーを押していただくと大変うれしいです(^-^)

それぞれの戦跡にそれぞれの記憶が存在する。
  1. 2023/03/12(日) 11:08:21|
  2. 戦争遺跡・地下壕
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

【戦争遺跡】川棚魚雷発射試験場

平和な時代に語りかける者達

川棚魚雷発射試験場
kawadana1.jpg
まだ夜も明けやらぬ薄暗い海。長崎県は大村湾内にその廃墟はある。
今回紹介するのは、大日本帝国海軍が使用した魚雷の、発射試験場跡でる。

それは、終戦から70年以上たった今でも、何かを語りかけるように存在していた。


kawadana2.jpg
見晴らしの良い高台から海を見下ろすと、特徴的な構造物が見て取れた。どうやらあれが目標のものらしい。


kawadana3.jpg
海の上に突き出すように存在している。


kawadana4.jpg
近づいてみると、ちょうど日が昇ってきた。朝日を受けて無機質な塔は明るく輝き始める。


kawadana5.jpg
塔に続く道を歩いていると、隣に神殿のような建物が現れた。これも遺構の一つで、魚雷を発射する前に調整するための施設だったようだ。


kawadana6.jpg
L字に折れ曲がった道が海の上に伸びている。

ここでこの施設の紹介を軽くしておこう。
この長崎という場所には海軍にとって非常に重要な施設が存在していた。それが佐世保鎮守府である。この佐世保鎮守府の近くには、佐世保海軍工廠という海軍の巨大工場が存在し、ここで多くの兵器が製造された。そのなかには魚雷も含まれていた。魚雷とは、魚型水雷の略称で、水中を走行し、艦船の水面下に衝突し、爆発して破孔を開けるための兵器である。その特性上、水中をうまく走行するかどうか試験する必要があった。その結果、佐世保海軍工廠で製造された魚雷の発射試験場が、大正7年(1918年)にこの地に建設されたのだ。
この場所は片島という元々は島だった場所なのだが、大東亜戦争勃発後の昭和17年(1942年)、この川棚に佐世保海軍工廠の分廠が設置されたことに伴い、試験場の施設が拡張され、片島は海峡が埋め立てられ、地続きの半島になったそうだ。


kawadana7.jpg
コンクリートの台上には、レールが設置されていたであろう跡が残っていた。


kawadana8.jpg
ふとみると、会場に箱のような遺構が見て取れた。あれは魚雷を監視するための施設の跡だ。


kawadana9.jpg
朝の陽光が雲間から海へと落ちる。


kawadana10.jpg
L字の台上を渡って行くと穴の空いた四角いものがあった。おそらくは海上に魚雷を着水させるためのクレーンの跡だと思われる。


kawadana11.jpg
横には海上に降りるための階段がある。ここに短艇などが横付けされたのだろう。


kawadana12.jpg
塔まで来た。
島影から朝日が顔を覗かせる。非常に眩しい。


kawadana13.jpg
70年という時の長さを思わせる光景。大崩落している。


kawadana14.jpg
塔を見る。本来は左右に建っていたのだというが、右の塔は崩落してしまったのだろう。一部しか現在は残っていない。
この場所は良い釣り場になっている。


kawadana15.jpg
先ほどの監視場もここから見える。


kawadana16.jpg
異様な光景にも見えるが、ごく自然にも見える。


kawadana17.jpg
魚雷調整場に目をやる。やはり神殿のような作りに圧倒される。


kawadana18.jpg
再び塔へ。大正の建築によくある、簡素だが機能的な建造物だ。


kawadana19.jpg
内部を観察してみよう。


kawadana20.jpg
と、その前に特徴的な遺構。おそらくここに魚雷を着水させ発射していたのだろう。溝は開閉式の扉と思われる。


kawadana21.jpg
内部の様子。二回部分はなくなり、ぶち抜きの空間になっていた。


kawadana22.jpg
レンガで壁を作り、その上からコンクリートで塗り固めたようだ。


kawadana23.jpg
島々が観察できる。


kawadana25.jpg
丸い空間からは大村湾の凪いだ海が雄大に広がる。


kawadana26.jpg
そしてあの四角い遺構も。


kawadana27.jpg
そろそろ別の場所を見に行こう。


kawadana28.jpg
正面から調整場を見る。


kawadana29.jpg
奥の道を進み、監視場へ近づく。


kawadana30.jpg
途中侵食されて道が崩落していた。


kawadana31.jpg
近くまで来た。監視場まで行く道は、存在しなかった。


kawadana32.jpg
海面に降り注ぐ光の柱。
日本の様々な場所に旅してきたが、自然の見せる表情は一度として同じことは無かった。一期一会の出会いは常に感動をもたらしてくれる。ここでも、そんな自然の一面が、ごく当たり前に存在した。


kawadana33.jpg
そしてその自然の中に、不自然な遺構は何故か神々しくも映った。


kawadana34.jpg
監視場を後にし、調整場へ。先ほどの台上の見事なアーチが見える。


kawadana35.jpg
この施設は軍事的な遺構とは思えないような構造をしている。


kawadana36.jpg
隣に小さめの建物。


kawadana37.jpg
教会か何かの遺構と言っても信じるだろう。


kawadana38.jpg
この見事なレンガと石積みの構造。手を入れて保存されてしかるべきだと思うが
そういえば軍艦島が世界遺産になるようだ。複雑な気持ちである。


kawadana39.jpg
さっそく内部へ入ってみよう。


kawadana40.jpg
内部の様子。白いタイルが異空間に色をつける。天井はすでに無い。


kawadana41.jpg
天井のない空には鳶と思う鳥が飛んでいた。


kawadana42.jpg
当時を思わせるようなものは何もない。ただ、静寂に包まれた空間があるだけだ。


kawadana43.jpg
当時の最先端だった魚雷を調整する施設は、現在は自然と一体化しつつある。


kawadana44.jpg
時間の無常さを確かめながら更に奥へ。


kawadana45.jpg
やはりここにも何もない。


kawadana46.jpg
一本の木の成長は、忘れられた場所を象徴するかのようだ。


kawadana47.jpg
この窓枠も実に芸術的だ。


kawadana48.jpg
室内には、今では何に使うのか分からない物が幾つか。


kawadana49.jpg
壁には碍子が残る。


kawadana50.jpg
戦場遺跡にはありがちな光景だが、あの時代をこんなふうに放置してしまって良いものだろうかと考えてしまう。


kawadana51.jpg
長い年月が「戦後」と言われて流れ過ぎた。その年月の中に戦争遺跡は取り残されている。


kawadana52.jpg
今戦争遺跡の痛みは激しく、崩落の危機にある。


kawadana53.jpg
戦後70年を迎えた現在。


kawadana54.jpg
もう一度これらの遺跡の声なき声に耳を傾けてみよう。


kawadana55.jpg
そうすれば、この国がかつて大戦争の渦中にあったことを再認識出来るはずだ。
そうすれば、この平和な時代がいかにして成り立ち、そのために散っていった多くの英霊の声を聞くことが出来るだろう。


kawadana58.jpg
そんなことを思いつつこの地を後にする。


kawadana59.jpg
悠遠の神世より降り注ぐ光の柱は、静かに朝の大村湾を照らしだしていた。

【掲載廃墟一覧】
今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます

Twitter始めました!
これからTwitterでブログアップ情報や廃墟情報などを発信します。また、廃墟情報や心霊スポット情報など、お持ちの方はどんどん遊びに来てください!

@tisyakiで検索するか、横のタイムラインからフォローしてください。

さぁ行こう!自分の目で時代を確かめに!
  1. 2015/08/10(月) 22:06:27|
  2. 戦争遺跡・地下壕
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

【戦争遺跡・地下壕】八丈島要塞 直射砲台

敵上陸浜橋頭堡粉砕!島防衛の夢かけら

八丈島要塞 直射砲台
tyokusya1.jpg
八丈島には有名な大阪トンネルというトンネルがある。そのすぐ横に異様な構造物がぽっかりと口を開けているのだが、それが今回紹介する通称直射砲台だ。


tyokusya2.jpg
この砲は直射というだけあって米軍の上陸想定浜に砲台が向いている。米軍が上陸中、あるいは初期の橋頭堡を作っている間に、この砲台に設置されていた重砲で米軍の側面を狙い撃とうと考えたのだろう。
このような砲台跡と見られる跡は島の各所に存在している。


tyokusya3.jpg
アーチ型に作られた砲室。この作りは本土のそれと変わりは無いように見える。


tyokusya4.jpg
アーチ外側部分。かなりの厚みを持ったコンクリートの壁。米軍は上陸侵攻の際、戦艦からの支援射撃も行うので、築城はより頑丈にする必要があった。


tyokusya5.jpg
この台座の上に砲が設置されていたのだろう。


tyokusya6.jpg
砲室のすぐ脇にある入り口。


tyokusya7.jpg
内部はコンクリートの小さな部屋。弾薬庫なのか、兵員の待避所なのかはわからない。奥に細い道が続いている。


tyokusya8.jpg
この豪は湧き水があるらしく、床はだいぶ侵食されている。


kami8 (2)
砲室から奥に伸びる通路に進む。


tyokusya10.jpg
広い通路から枝分かれした細い通路。ここに進む。


tyokusya11.jpg
すぐに広い部屋。これは兵員の待機場所であろうと思う。


tyokusya12.jpg
細い通路は奥に続いている。


tyokusya13.jpg
さび付いた鉄杭が壁に突き刺さる。


tyokusya14.jpg
非常に狭い通路。


tyokusya15.jpg
通路は左に何回か枝別れしているが、崩落が激しく進めなかった。


tyokusya16.jpg
土質が急にやわらかくなった。


tyokusya17.jpg
この先はまだまだ続いているのだろうが、ここから水が流れ出しており、崩落も激しいので前進できず、来た道を引き返すことにした。


tyokusya18.jpg
先ほどの広い通路の先。埋め戻しなどで封鎖されていた。この先は大阪トンネルの反対側の斜面に出るらしい。


tyokusya20.jpg
砲室から道路を見る。


tyokusya23.jpg
上陸想定浜方面を見る。白波が砕けては散りを繰り返していた。
この浜に米軍の大部隊が殺到してくることは、もうないだろう。


おまけtyokusya26.jpg
上陸想定浜付近を散策中にトーチカらしきものを発見。


tyokusya27.jpg
砲爆撃されたらひとたまりもなさそうだが、上陸想定浜を側射できるように作られているので、たぶん当時のものだろう。

tyokusya28.jpg
内部の様子。


tyokusya29.jpg
天井には空気の取り入れ口なのか、土管が突き刺さる。


tyokusya30.jpg
今は穏やかな風が吹き抜ける海岸。


tyokusya31.jpg
鉄の暴風が吹き荒れていた可能性もあったのだ。


tyokusya25.jpg
事実と幻想は紙一重の場所で息を潜めているのである。


oosaka.png
直射砲台の壕内図。縮尺や細部は適当です。




お詫びと訂正
新年企画と称してよくわかる本土決戦を最後まで掲載する予定でしたが、時間が圧倒的に足りず、予定を変更して残りの二つの壕は後日改めて掲載しようと思っています。すいません。
次回からは、平常の廃墟物件を掲載する予定です。

にほんブログ村 写真ブログ 廃墟・廃屋写真へ
にほんブログ村
ランキング参加中。上のバナーを押していただくと大変うれしいです(^-^)

【掲載廃墟一覧】
今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます

八丈島にはまだまだ行くよ!
  1. 2014/02/09(日) 09:33:14|
  2. 戦争遺跡・地下壕
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

【戦争遺跡・地下壕】八丈島要塞 鉄壁山地下司令部壕

今明かされる八丈島の大迷宮!鉄壁山司令部に潜入!

八丈島要塞 鉄壁山地下司令部壕

yama1.jpg
知られざる八丈島地下要塞シリーズ!全回の【神止山地下連隊本部壕】に引き続き、今回は【鉄壁山地下司令部壕】を紹介したい。
この鉄壁山司令部壕は前回の神止山本部壕の上位に位置する独立混成第67旅団司令部壕である。場所は島の南東方向に位置す東山(三原山)山中の通称鉄壁山に存在する。神止山本部壕と違い、この壕は整然と綺麗に作られており、さすが総司令部壕といった構造になている。

防衛道路と言われる林道から鉄壁山方面へと続く道へ入るところから紹介した。


yama2.jpg
まずはこの道を見つけることが困難であった。何しろ下見に来た深夜3時には全く分からなかったのだ。再度朝探索してやっと発見した。


yama3.jpg
整備された林道が続く。先へ進む。


yama4.jpg
やがて左に怪しい場所が現れた。


yama5.jpg
これが鉄壁山地下司令部壕の壕口である。早速潜入してみよう。


yama6.jpg
入ってすぐ、四角く掘削された通路が伸びる。


yama7.jpg
碍子もひとつ落ちている。


yama8.jpg
丁字路を左に進む。ここはかの稲川淳二も最恐の心霊スポットの一つとして紹介していたが、自分が入った時にはそのような現象は一切なかった。


yama9.jpg
右に通路があるが、そのまま直進する。


yama10.jpg
フックの付いた碍子。碍子は数えるくらいしか落ちていないが、電気が通っていたのは間違いない。


yama11.jpg
錆びついた包丁。なんでこんなものが。


yama12.jpg
先へ進む。


yama13.jpg
短く狭い閉塞部屋がある。


yama14.jpg
先ほど直進した場所まで戻る。そして右に進む。


yama15.jpg
回りこむような通路になっている。奥にコンクリート製の貯水槽が見えてきた。


yama16.jpg
綺麗に作られている。そういえば八丈島の地下壕はコンクリート製の構造物が多いような気がする。


yama17.jpg
全体像。


yama18.jpg
錆びついたかすがいが置いてあった。


yama19.jpg
通路がわかれている。左の暗がりに進む。


yama20.jpg
その前に、右の通路には腐った木柱が立っていた。


yama22.jpg
さっそく左の通路に進んでみよう。


yama23.jpg
小さな段差があり小さな階段がある。


yama24.jpg
階段下に丁字路がある。


yama25.jpg
丁字路左に進むとコンクリート製の立派な構造物があるようだ。


yama25 (2)
手掘りの通路から比べればだいぶ重厚だ。八丈島まで来たのはこのためなのだ!


yama27.jpg
コンクリート内部には鉄筋が入れられている。


yama28.jpg
壁に小さな小窓。


yama28 (2)
外を狙撃するための銃眼だ。


yama30.jpg
ここから外にでることができる。


yama31.jpg
外から見る。旅団司令部壕ともなるとホントにきれいな作りだ。


yama31 (2)
再び内部に入ってみる。すぐに倉庫のような部屋がある。


yama32.jpg
通路の先が見えるが行き止まりのように見える。しかし・・・


yama32 (2)
コンクリート製の壁に小さな穴。これは・・・!


yama33.jpg
はい。ついにたどり着きました。ここが旅団司令部壕の心臓部である。


yama35.jpg
敵の内部侵入を意識しての銃眼だろう。ここまできての戦闘は最後の最後までの敢闘精神の現れだろう。


yama34 (2)
コンクリート製の入り口から先へ進む。


yama37.jpg
驚いた。というより感動した。これがほとんど誰の目からも触れること無く、話題になることもなく、南海の孤島に存在する、これを奇跡と言わないでなんと言おうか。


yama38.jpg
壁から土砂がこぼれている。


yama39.jpg
ものすごく急な坂。この先山頂に続いているような気がするが、情報では閉塞しているみたいなので、今回は行かない。


yama41.jpg
天井には碍子のようなものは無いが、鉄の芯が出ている。
ちなみにこの部屋は司令部員の為の部屋と、経理を担当するための兵員の部屋のようだ。戦争であり、末期といえど、経済活動に変わりわなく、給料計算や雑費など、経理員が必要なのだ。


yama42.jpg
この壕は旅団司令部のわりには残留物がほとんどない。だが、少しばかりならあった。


yama45.jpg
これは当時旧軍が使用していた湯飲みのかけらだろう。これと同じような模様のものを見たことがある。


yama46.jpg
ここは経理員室である。


yama47.jpg
わずかに残る碍子のかけら。


yama48.jpg
この木材は60数年前からほとんど変わらずここにあり続けたのだろう。


yama49.jpg
奥へ奥へ。深淵のその先へ。


yama50.jpg
小さく区切られた部屋。


yama50 (2)
これはトイレの跡だろ言う。しかし、こんな場所にひとつだけトイレをつくるだろうか?


yama51.jpg
それなりに深い穴。落ちたら絶対に出てはこられないだろう。


yama52.jpg
その穴の上に穴。先は暗くどこまでも上に伸びている。


yama53.jpg
内部の様子。物音ひとつしない。


yama55.jpg
この先は核心部でも最重要な場所だ。


yama56.jpg
かまぼこ上の殺風景な部屋ここはかつて副官室、参謀部、司令官室があった場所だ。


yama57.jpg
ひとつ間違えば、ここは凄惨な自決の現場になっていたことだろう。


yama58.jpg
換気のための穴だろうか。

yama59.jpg
司令官室に開いている大きな穴。これはかつてテレビ局が開けた穴らしいが詳細は不明。


yama60.jpg
当時を偲ばせる光景。排水溝に木の板が乗せられている。

yama61.jpg
右の扉から入った。

yama62.jpg
左の扉に進む。

yama63.jpg
ここはコンクリートでできた核心部の最後の部屋だ。将校下士官室である。

yama64.jpg
入ってすぐガラスが散乱している。

yama65.jpg
この先は溶接された赤い鉄格子のために進めない。


yama66.jpg
鉄格子の先。急な下り坂が続いている。

yama67 (2)
仕方がないので右の出入り口に進む。

yama67.jpg
だが、土砂のためにすぐに閉塞していた。

yama69.jpg
もと来た道を戻る。

yama70.jpg
トイレがあった場所の正面に通路があった。崩壊している先へ進む。

yama71.jpg
いつ落盤してもおかしくない通路。

yama72.jpg
少し大きめの部屋。ここは弾薬庫だったらしい。

yama73.jpg
朽ち果てた弾薬ボックス。

yama74.jpg
これは当時の電池だ。掘り起こしたら見つかった。貴重なものだ。

yama75.jpg
これ以上の探索は無理なので、いったん外に出ることにした。

yama76.jpg
これは鉄壁山地下司令部壕で最もよく目にする資料のひとつだろう。出入り口のひとつである。

yama77.jpg
中へ入るとすぐに土砂で閉塞していた。

yama78.jpg
だがここに魅力的なものがある。

yama79.jpg
ここはトイレだというのだ。

yama80.jpg
もちろん戦闘のことを考えて銃眼が作られている。トーチカになっているのだ。

yama81.jpg
ここをみるとやっぱりトイレだ。

yama92.jpg
銃眼から外を見る。道を掃射できるように作られている。

yama83.jpg
銃眼を外から見る。

yama84.jpg
張り出し部分。

yama85.jpg
横長の銃眼。

yama86.jpg
位置関係。左に見えるのは唯一ふさがっていないコンクリートの出入り口。右に見えるのはトイレ兼トーチカ。

yama87.jpg
これは第三の出入り口。土砂で閉塞している。

yama89.jpg
いきなりだが、苦労して第三層部へ続く壕口を発見した。

yama90.jpg
早速先へ進む。

yama91.jpg
先には広い部屋。これは兵員の起居室だったらしい。

yama93.jpg
その先に長い通路。通路の先は外に繋がっている。

yama94.jpg
小さな部屋。この真ん中にあるのは。

yama95.jpg
火鉢だ。こんなものまであるのか。

yama96.jpg
通路を先に進むと小さな狭い入り口があった。

yama97.jpg
これ、わかりづらいがものすごく急な下り坂だ。これを降りて第三層部へ進む。

yama98.jpg
まだ続くの~

yama99.jpg
やっと通路の出口にたどり着いたようだ。

yama100.jpg
出てみると細い通路がある。ここが第三層部だ。

yama101.jpg
細い通路を進むと広い部屋に出た。

yama102.jpg
かなり広いフロア。

yama103.jpg
壁にあった大きな岩。どうやらでかすぎて取り出せなかったようだ。

yama104.jpg
ここは当時糧食庫だった。

yama105.jpg
ペットボトルの中に焼鳥と書かれた謎のメッセージ。正直理解に苦しむ。

yama106.jpg
あの赤い鉄格子は見覚えがある。

yama107.jpg
これも特徴的な遺構のひとつ。

yama108.jpg
天井が四角くぶち抜かれている。そういえば、子供が誤って地下壕の穴に落ちて亡くなる事故が八丈島では起きているらしい。もしや・・・

yama109.jpg
第四層部へいくにはこれまた急な坂をくだらなくてはならない。当時は階段だったものが、劣化して斜面になっているのだ。

yama110.jpg
斜面の出口に近づく。

yama112.jpg
そして、ついた。ここが第四層部だ。

yama113.jpg
ここには豊富な湧き水が出ている。そのせいで壕は侵食されている。

yama114.jpg
かまど。

yama115.jpg
この壕の炊事場だ。

yama116.jpg
ここがこの壕の最深部だ。

yama117.jpg
この場所は八丈島の水源のひとつとなっている。

yama118.jpg
外からの様子。頑丈に閉じられている。

yama119.jpg
いかがだったろうか。長らく放置され、その存在を知られてこなかった鉄壁山司令部壕の全貌をここで紹介でき、その魅力を知ってもらえれば幸いである。

yama120.jpg
では、原生林をかきわけ帰るとしよう。

gou.png
鉄壁山地下司令部壕の壕内図である
縮尺や細部は適当である

にほんブログ村 写真ブログ 廃墟・廃屋写真へ
にほんブログ村
ランキング参加中。上のバナーを押していただくと大変うれしいです(^-^)

【掲載廃墟一覧】
今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます

稲川順二もここに来ているよ。詳しくは【恐怖の現場 八丈島】で検索検索!
  1. 2014/01/14(火) 15:29:36|
  2. 戦争遺跡・地下壕
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:10

【戦争遺跡・地下壕】八丈島要塞 神止山地下連隊本部壕

今明かされる忘れられた本土防衛の要塞

八丈島要塞 神止山地下連隊本部壕

sinnkou2.png
八丈島。東京都の一角であるこの島は本土から直線距離で約280キロ。南海の島と言ってよく、冬でもさだ寒い程度だった。この島に何があるのか。それは地下壕である。ある雑誌からこの島に総延長60キロ以上の長大な地下要塞が建設されているという情報を入手した自分は去年の時点で居てもたってもいられなくなり、次の日には八丈島行きの航空機のチケットを予約していたのだ。
硫黄島を有する小笠原諸島が要塞化されており、数々の戦争遺跡が残されていることは有名だろう。だが、八丈島にこのような戦争遺跡が残っているとは知らなかった。そこで、八丈島が戦時中におかれていた現状について、まずは説明しよう。

上の図は昭和19年から20年にかけての米軍侵攻図である。

大東亜戦争初戦こそ連戦戦勝を重ねた日本軍であったが、昭和17年6月のミッドウェイ海戦の大敗北と、それに続くガダルカナル・ソロモン諸島を巡る大消耗戦の結果、海航空優勢は米軍のものとなり、戦線は大きく後退せざるおえなくなった。次なる米軍の目標は誰の目からもマリアナ諸島の日本軍拠点であり、その飛行場であると考えられ、その諸島(サイパン・グアム・テニアン)の防備要塞化が推し進められた。そして、満を持して挑んだ昭和19年6月の米軍来襲時、日本海軍は虎の子の空母機動部隊を繰り出しマリアナ沖海戦(あ号作戦)を生起させるが、結果は日本海軍の一方的な大敗北となり、事実上空母機動部隊は壊滅した。陸での戦いは、これも満を持して島を要塞化したサイパン守備隊が、米軍の着上陸から翌日の日本軍総反撃までで、その戦闘能力をほとんど失い、翌月にはサイパン島が陥落することになる。マリアナ諸島が陥落したことにより、ここに超長距離爆撃機B-29が配備されることとなり、以後日本本土は終戦まで、爆撃の嵐にさらされ続けた。
マリアナを落とした米軍は、いよいよ日本本土への上陸侵攻を視野に入れた最終路線へ動き出すことになる。その第一歩は、マリアナと東京のほぼ中間点に位置する硫黄島占領から始まる。昭和20年2月に硫黄島へ進行した米軍は、日本軍の巧みな陣地構築による迎撃で甚大な被害を出したものの、同島を3月に占領。続いて4月には、日本本土と南方資源地帯からの海洋連絡線遮断と、艦隊の泊地、物資集積所等の確保の観点から沖縄へ侵攻。大激戦のすえ6月に同島は陥落した。いよいよ、日本本土侵攻の準備は整えられたのである。

このような情勢下のなか、八丈島を守備する第67旅団は延々島の地下要塞化を進めていた。島はサイパン島の戦訓を取り入れ、縦深による地下複郭陣地を構成し、かなりの数の地下陣地が終戦までに建設されていたが、この島に米軍が上陸することは無かった。というか、米軍はこの島に興味など無かったことだろう。硫黄島を占領したのは、その飛行場を確保し、マリアナ諸島から飛来するB-29の緊急不時着場とすることと、護衛戦闘機の発信拠点にすることという理由があったが、硫黄島を占領したことでその作戦目標は達成されたわけで、本土に近すぎ、なおかつ戦略的にも戦術的の意味のない八丈島侵攻は計画されなかったのだ。

現在、島が要塞化され、長大な地下陣地が残されていることを知っているものは、わずかしかいないだろう。
当時、島を要塞化し、硫黄島や沖縄のように島を墓場として戦おうと決意していた全将兵に対して敬意をはらい紹介する。


キャプチャこの島には一個旅団が駐屯しており、それは二個連隊から構成されていた。島には2つの司令部地下壕(日本陸軍では、連隊規模の司令部のことを本部と読んだ)が確認されており、今回紹介する【神止山地下連隊本部壕】は戦時連隊本部であり、次に紹介する【鉄壁山司令部地下壕】は戦時旅団司令部である。島はほぼ全周を断崖に囲まれ、上陸予定浜を見てきたが、岩に波が打ち付けている有り様であり、ここに米軍が上陸するのは至難ではなかったかと推測される。
注 上の図では地下司令部壕とありますが、正しくは連隊本部壕。連隊は独立混成第43連隊


kami1.jpg
神止山の登山道をだいぶ登ってっきた。もう頂上付近と思っていると、暗闇からいきなり壕口が現れた。自分は歓喜して突入を開始した。


kami2.jpg
長方形に掘削された部屋があった。兵員の待機所だろうか。


kami3.jpg
奥の部屋の窓。銃眼かあるいは観測用の窓だろう。

ここにきて少しおかしいと気づく。この壕は小規模すぎ、自分の持っている情報と違う。これは違う壕のようだ。


kami4.jpg
入り口から伸びている通路の先にあった窓。


kami5.jpg
閉塞した部屋。


kami6.jpg
綺麗に掘削された棚があった。


kami7.jpg
入り口を見る。外は暗い。


kami8.jpg
入口近くにはコンクリート製の貯水槽があった。


kami9.jpg
貯水槽は本土の壕だとそこまで頻繁にみるようなものでもない。しかし、この後の探索で八丈島にはこのての貯水槽が沢山発見された。


tikagopu.png
この壕は観測の為のものだと思われるが、仮に上部壕としておく。

司令部壕の入り口はしばらく発見出来なかったが、ある場所の獣道らしき急斜面を降りた時に、それは唐突に現れた。


kami10.jpg
神止山地下連隊本部壕の壕口である。
八丈島の地下壕と検索しても情報がほとんど出てこない神止山の地下連隊本部壕に辿り着いたのである。


kami11.jpg
さっそく壕内に侵入。
暗く狭い通路が奥に通じている。


kami12.jpg
入口近くの貯水槽。これは一部コンクリート製で岩をくりぬいて作られているようである。


kami13.jpg
狭い部屋。待機所か。


kami14.jpg
この壕は大きく分けて三層から構成されている。現在居るのは頂上付近の上層部である。とりあえず上層部を見て回る。
奥に進む。


kami15.jpg
これは銃眼だろう。上部層には銃眼が多くある。


kami16.jpg
棚の上に薬瓶らしき瓶が一つだけおいてあった。


kami17.jpg
さぁ、入り口まで戻ってきた。左に見える暗い通路に進む。


kami18.jpg
すると狭い階段が作られていた。これもテンションが上がる出来栄えである。


kami19.jpg
とにかく狭い。そして急。これはこの壕の特徴のひとつであるが、司令部壕といっても実際の戦闘を意識した作りになっているのか、狭く、そして縦横無尽である。


kami20.jpg
下から階段を見てみる。


kami21.jpg
階段出口。


kami22.jpg
階段を出て左に行くと、すぐに銃眼の作られた狙撃部屋があった。


kami23.jpg
銃眼はコンクリート製であるが、大きな岩が中に入れられている。


kami24.jpg
何かがはめられていたのか、溝があった。


kami25.jpg
狙撃部屋から通路に出る。コンクリートで通路を塞いでいたかの様な跡。


kami26.jpg
右が先ほどの階段。


kami27.jpg
閉塞した部屋に落ちていた一升瓶。地下壕ではよく見るが当時のものだろうか?


kami28.jpg
通路の先にあった丁字路。


kami29.jpg
丁字路を左に進んでみる。


kami30.jpg
するとコンクリート製の貯水槽がある出入り口があった。この壕は多くの出入口が山の至る所に開いている。出撃口や脱出口など、一つが潰されても大丈夫なように沢山つくってあるのだ。


kami31.jpg
貯水槽の作り。板で枠を作ってコンクリートを流し込む簡易な作りであると思われる。


kami32.jpg
隣の壕口。土のうコンクリートで閉塞されていた。


kami33.jpg
通路に戻って先ほどの丁字路を右に行くと、閉塞した部屋に銃眼が作られていた。


kami34.jpg
コンクリートでしっかりと作られている。


kami35.jpg
射線は山の斜面を掃射出来るようになっていると思われる。


kami36.jpg
狙撃部屋の中の棚。これに弾薬ボックスでも置いておくのだろう。


kami37.jpg
クランクした通路。わざとクランクさせて銃撃戦になっても直線で撃たれないようになっている。


kami38.jpg
銃眼。地図には出入口と書いてあるが、これは狙撃部屋だろう。


kami39.jpg
この壕はとにかく縦横無尽で面白い。既存の壕内の概念を打ち破る。これもその一つだろう。


kami40.jpg
はしごがあるのだ。


kami41.jpg
このはしごがなければこれだけの段差を登るのは一苦労だ。攻め寄せる米軍に対して最後の籠城を考えてのことだろうか?

この下から上部層から中部層へと切り替わった。


kami42.jpg
このはしごの下で機密文書発見!先人がここで落としたのだろう。なんてラッキー。これは後の壕探索で有利に働いた。敵の戦術地図を手に入れた気分だ。


kami43.jpg
はしごの無効にはまた丁字路。


kami44.jpg
これは銃眼か出撃口かわからない。


kami45.jpg
この窓から外を見る。眼下に八丈の町の灯りが見て取れた。


kami46.jpg
狭いが形状から見て銃眼だろう。


kami47.jpg
本当にこの壕は攻撃的である。


kami48.jpg
通路に戻る。


kami49.jpg
ここで面白い構造が現れた。


kami50.jpg
広い空間のある部屋だ。奥に進む通路が見て取れる。


kami51.jpg
腐った木片。当時のものだろう。このように壁の溝に木材を入れ、当時はフローリングの床や天井が作られていたものと思われる。


kami52.jpg
先ほどの奥の通路を行くと左に折れてすぐにまた左折する。そして同じような部屋。ここはまるでコの字型の様な構造になっているのだ。このような構造がもう一つこの先に見て取れた。


kami53.jpg
通路に出て進むとまたクランク。


kami54.jpg
そして直線の通路。


kami55.jpg
おなじみの丁字路。左にまがってみる。


kami56.jpg
するとすぐに土砂で閉塞しているが、貯水槽がある。


kami57.jpg
これはかなりしっかい作られている。


kami58.jpg
コンクリート製のあり、周りには木材の柱。形状から当時は天井でもあったのだろう。


kami59.jpg
コンクリートに文字が刻まれていた。「昭和二十 八月」と見て取れる。当時の建築に携わった誰かが刻んだものだ。昭和二十年八月といえば言わずもがな終戦の月だ。これを作ったその月に戦争が終わると予想出来だたろうか。


kami60.jpg
通路が枝分かれしている場所に着いた。


kami61.jpg
左にいくと出入口がある。


kami62.jpg
壕口のそとから内部を見てみる。


kami63.jpg
右側の通路を行く。


kami64.jpg
するとまた階段が現れた。


kami65.jpg
そして、階段の先にあったのは、細い長い通路だった。


kami66.jpg
かなり長い通路である。細い通路がクランクをしながら先に通じている。


kami67.jpg
やがて丁字路が再び現れた。


kami68.jpg
閉塞してはいないが、土砂が流入している出入口。実はここから自分は入ったのだ。かなり苦労した。


kami69.jpg
ここにきてやっと碍子がひとつ。この壕にも電気が来ていた跡が発見された。


kami70.jpg
広い空間。通路が分岐している。十字路のようになっている。


kami71.jpg
別アングル。


kami72.jpg
奥に別の出入り口があるようだ。


kami73.jpg
出入口を近くから見る。


kami74.jpg
通路を見る。


kami75.jpg
通路の脇にある階段を降りて先へ進む。


kami76.jpg
ちょっとした階段も、本土では珍しいものだ。


kami77.jpg
そしてまた圧迫感のある細い通路が続く。


kami78.jpg
ここからまた変わった作りになっている。


kami79.jpg
短い距離で閉塞する部屋がある。このような部屋が6っつこの先にあった。これは物資の倉庫だろうか?それとも戦闘に関する施設だろうか?これは分からない。


kami80.jpg
その先にある突き当り。いよいよ通路が複雑になってきている。


kami81.jpg
まずは突き当り左。すぐに出入口になっている。


kami82.jpg
かなり傷んで入るがコンクリートで舗装されている。


kami83.jpg
通路。先へ進む。


kami84.jpg
やけに綺麗に掘削されている壁。際立って見える。


kami85.jpg
先へ進むほど細くなる通路。


kami86.jpg
黒縁のメガネが通路に落ちていた。ここで何が会ったのだろうか。


kami87.jpg
せまい階段がある。


kami88.jpg
さらに通路は細分化される。


kami89.jpg
この壕はゲジゲジさんはあまりいないのだが、やけにやもりさんがいる。こいつはたくさんいる。


kami90.jpg
銃眼と思われる窓。


kami92.jpg
再び狭い通路に戻る。


kami93.jpg
これも銃眼と思われる。これはわかりやすい作りになっている。


kami94.jpg
銃眼の前にある一人分が立てるほどのスペース。これは狙撃手がこの場所に立って射撃出来るようにしているのだろう。


kami95.jpg
真正面には穴。これは珍しいのではないか。


kami96.jpg
通路の分岐点に戻って先に行く。


kami97.jpg
通路の先へ進む。


kami98.jpg
通路の先に左に進む道がある。この先にこの壕の最も特異な階段があった。


kami100.jpg
なんと螺旋階段だ。階段は途中でクランクし、下に伸びているのだ。


kami101.jpg
螺旋階段の中間点にはテラスがあり下に伸びている。


kami102.jpg
螺旋はわずかに一段階だが、このような遺構は見たことがない貴重なものだ。


kami103.jpg
螺旋階段を通過したらついに最下層の下層部へ到着だ。


kami111.jpg
ここまで来たらはっきり言ってよく構造が分からなくなった。迷宮化してきたのだ。


kami112.jpg
壕口より内部を見る。


kami113.jpg
下層部でも銃眼が発見された。


kami114.jpg
狙われる米軍もたまったものでは無いだろう。


kami115.jpg
通路は更に細く、十字路や丁字路が折り重なる。


kami116.jpg
この要塞もそろそろ終盤である。


kami117.jpg
階段を降りる。


kami118.jpg
ある壕口から内部を見てみた。この時外の様子がおかしいことに気づく。なんと八丈島はとんでもない嵐になっていたのだ。明日の飛行機が飛ぶか不安になってきた・・・


kami119.jpg
外に目をやると激しい風で木が揺れていた。なんだか畑のようだったので調べてみたら、シンノウヤシという八丈島の特産品であった。主に観葉植物として出荷されるみたいだ。

kami120.jpg
かなりの崖。これでは降りられない。この壕口は身を乗り出して敵を狙撃するためのものと思われる。


kami121.jpg
半分埋まった貯水槽。


kami122.jpg
再び通路に戻った。


kami123.jpg
今日何匹目かわからんやもりさん。こいつらは上から容赦なく落下してすぐさま逃げ出す。ゲジゲジの100000万倍かわいい。


kami124.jpg
閉塞した倉庫。


kami126.jpg
個々に来て閉塞した部屋が目立ち始めた。倉庫なのか、起居室なのか。


kami127.jpg
兵員の為の部屋であると思われる。


kami128.jpg
通路から。奥に見えるのは先ほどの埋まりかけた貯水槽だ。


kami129.jpg
部屋。


kami130.jpg
壁に残された無数の痕跡。手掘りの証拠だ。


kami131.jpg
そして、今回最後の急で細い階段通路が現れた。


kami132.jpg
鮮やかで面白いのだが、いかんせん足が限界だ。車に残してきたどらやき食いたい。


kami133.jpg
ちょっと広くなって最後のステップに進む。


kami134.jpg
ここが下層部でも一番低い最後のフロアのようだ。もう風来のシレンやってる気分だ。


kami141.jpg
最後の出口付近の小さな倉庫に入ったらそいつはいた。


kami142.jpg
銃弾である。弾頭部分であり、口径は13ミリといったところだ。最後の最後で掘り出し物だ。


kami143.jpg
そしてもうひとつ。最後の貯水槽。


kami144.jpg
貯水槽の下には当時の誰かの靴の跡。生々しく今も残っていた。

こうして、無事、神止山地下連隊本部壕の探索は終わったのだ。


kami145.jpg
あとは脱出あるのみ!


kami146.jpg
とおもいきや、なんとそとは原生林で道なんてひとつもない!おまけに真っ暗(午前1時)!嵐!急斜面!
これはかなりやばい。しかし、だからといって今の道を戻るのは嫌だ。悩んだ挙句に決心する。

ここを、降りよう。

こうして今探索最大の危機、下山が始まった。なんとか道に降りた時にはずぶ濡れ。カメラの三脚もなくなっていた。

八丈島の幻の巨大地下司令部壕探索することが出来て大いに満足だが、この島はこれで終わりではない。休むまもなく次の目標【鉄壁山地下司令部壕】へ向け出発するのだった。

にほんブログ村 写真ブログ 廃墟・廃屋写真へ
にほんブログ村
ランキング参加中。上のバナーを押していただくと大変うれしいです(^-^)

【掲載廃墟一覧】
今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます。

実は飛行機も着陸できるかどうか心配だった。ANAさんありがとうございました!
  1. 2014/01/13(月) 03:26:56|
  2. 戦争遺跡・地下壕
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:16
次のページ

プロフィール

東雲みょん

Author:東雲みょん
どうもこんにちは。東雲みょんといます。

このブログは日本の産業遺産や戦争遺跡といった廃墟を紹介しています。

日頃廃墟に旅に出ている自分です。

【掲載廃墟一覧】
【戦争遺跡一覧】
今までに旅に出た廃墟と戦跡の一覧です。

リンクフリーです!同じ趣味を持った人、そうじゃない人もどんどんリンクしちゃってください。

【Twitter始めました!】
廃墟の情報交換や意見交換などから、雑談まで、お話ししたいことがあったらどんどんお越しください!

検索 @tisyaki

最新記事

カテゴリ

未分類 (7)
掲載廃墟一覧 (1)
産業遺産 (26)
戦争遺跡・地下壕 (25)
廃線 (12)
廃校 (12)
廃村 (6)
宿泊系廃墟 (12)
娯楽系廃墟 (8)
不思議系廃墟 (9)
廃病院 (10)
心霊スポット (5)
廃アル風景 (2)
一軒家系廃墟 (2)
廃車館 (1)
戦争遺跡一覧 (1)

最新コメント

twitterはじめました!

最新トラックバック

FC2カウンター

フリーエリア


バナーが出来ました。

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

謎のエリア

にほんブログ村 写真ブログ 廃墟・廃屋写真へ
にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村