平和な時代に語りかける者達川棚魚雷発射試験場

まだ夜も明けやらぬ薄暗い海。長崎県は大村湾内にその廃墟はある。
今回紹介するのは、大日本帝国海軍が使用した魚雷の、発射試験場跡でる。
それは、終戦から70年以上たった今でも、何かを語りかけるように存在していた。

見晴らしの良い高台から海を見下ろすと、特徴的な構造物が見て取れた。どうやらあれが目標のものらしい。

海の上に突き出すように存在している。

近づいてみると、ちょうど日が昇ってきた。朝日を受けて無機質な塔は明るく輝き始める。

塔に続く道を歩いていると、隣に神殿のような建物が現れた。これも遺構の一つで、魚雷を発射する前に調整するための施設だったようだ。

L字に折れ曲がった道が海の上に伸びている。
ここでこの施設の紹介を軽くしておこう。
この長崎という場所には海軍にとって非常に重要な施設が存在していた。それが佐世保鎮守府である。この佐世保鎮守府の近くには、佐世保海軍工廠という海軍の巨大工場が存在し、ここで多くの兵器が製造された。そのなかには魚雷も含まれていた。魚雷とは、魚型水雷の略称で、水中を走行し、艦船の水面下に衝突し、爆発して破孔を開けるための兵器である。その特性上、水中をうまく走行するかどうか試験する必要があった。その結果、佐世保海軍工廠で製造された魚雷の発射試験場が、大正7年(1918年)にこの地に建設されたのだ。
この場所は片島という元々は島だった場所なのだが、大東亜戦争勃発後の昭和17年(1942年)、この川棚に佐世保海軍工廠の分廠が設置されたことに伴い、試験場の施設が拡張され、片島は海峡が埋め立てられ、地続きの半島になったそうだ。

コンクリートの台上には、レールが設置されていたであろう跡が残っていた。

ふとみると、会場に箱のような遺構が見て取れた。あれは魚雷を監視するための施設の跡だ。

朝の陽光が雲間から海へと落ちる。

L字の台上を渡って行くと穴の空いた四角いものがあった。おそらくは海上に魚雷を着水させるためのクレーンの跡だと思われる。

横には海上に降りるための階段がある。ここに短艇などが横付けされたのだろう。

塔まで来た。
島影から朝日が顔を覗かせる。非常に眩しい。

70年という時の長さを思わせる光景。大崩落している。

塔を見る。本来は左右に建っていたのだというが、右の塔は崩落してしまったのだろう。一部しか現在は残っていない。
この場所は良い釣り場になっている。

先ほどの監視場もここから見える。

異様な光景にも見えるが、ごく自然にも見える。

魚雷調整場に目をやる。やはり神殿のような作りに圧倒される。

再び塔へ。大正の建築によくある、簡素だが機能的な建造物だ。

内部を観察してみよう。

と、その前に特徴的な遺構。おそらくここに魚雷を着水させ発射していたのだろう。溝は開閉式の扉と思われる。

内部の様子。二回部分はなくなり、ぶち抜きの空間になっていた。

レンガで壁を作り、その上からコンクリートで塗り固めたようだ。

島々が観察できる。

丸い空間からは大村湾の凪いだ海が雄大に広がる。

そしてあの四角い遺構も。

そろそろ別の場所を見に行こう。

正面から調整場を見る。

奥の道を進み、監視場へ近づく。

途中侵食されて道が崩落していた。

近くまで来た。監視場まで行く道は、存在しなかった。

海面に降り注ぐ光の柱。
日本の様々な場所に旅してきたが、自然の見せる表情は一度として同じことは無かった。一期一会の出会いは常に感動をもたらしてくれる。ここでも、そんな自然の一面が、ごく当たり前に存在した。

そしてその自然の中に、不自然な遺構は何故か神々しくも映った。

監視場を後にし、調整場へ。先ほどの台上の見事なアーチが見える。

この施設は軍事的な遺構とは思えないような構造をしている。

隣に小さめの建物。

教会か何かの遺構と言っても信じるだろう。

この見事なレンガと石積みの構造。手を入れて保存されてしかるべきだと思うが
そういえば軍艦島が世界遺産になるようだ。複雑な気持ちである。

さっそく内部へ入ってみよう。

内部の様子。白いタイルが異空間に色をつける。天井はすでに無い。

天井のない空には鳶と思う鳥が飛んでいた。

当時を思わせるようなものは何もない。ただ、静寂に包まれた空間があるだけだ。

当時の最先端だった魚雷を調整する施設は、現在は自然と一体化しつつある。

時間の無常さを確かめながら更に奥へ。

やはりここにも何もない。

一本の木の成長は、忘れられた場所を象徴するかのようだ。

この窓枠も実に芸術的だ。

室内には、今では何に使うのか分からない物が幾つか。

壁には碍子が残る。

戦場遺跡にはありがちな光景だが、あの時代をこんなふうに放置してしまって良いものだろうかと考えてしまう。

長い年月が「戦後」と言われて流れ過ぎた。その年月の中に戦争遺跡は取り残されている。

今戦争遺跡の痛みは激しく、崩落の危機にある。

戦後70年を迎えた現在。

もう一度これらの遺跡の声なき声に耳を傾けてみよう。

そうすれば、この国がかつて大戦争の渦中にあったことを再認識出来るはずだ。
そうすれば、この平和な時代がいかにして成り立ち、そのために散っていった多くの英霊の声を聞くことが出来るだろう。

そんなことを思いつつこの地を後にする。

悠遠の神世より降り注ぐ光の柱は、静かに朝の大村湾を照らしだしていた。
【掲載廃墟一覧】今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます
Twitter始めました!これからTwitterでブログアップ情報や廃墟情報などを発信します。また、廃墟情報や心霊スポット情報など、お持ちの方はどんどん遊びに来てください!
@tisyakiで検索するか、横のタイムラインからフォローしてください。
さぁ行こう!自分の目で時代を確かめに!
- 2015/08/10(月) 22:06:27|
- 戦争遺跡・地下壕
-
| トラックバック:0
-
| コメント:3
敵上陸浜橋頭堡粉砕!島防衛の夢かけら八丈島要塞 直射砲台

八丈島には有名な大阪トンネルというトンネルがある。そのすぐ横に異様な構造物がぽっかりと口を開けているのだが、それが今回紹介する通称直射砲台だ。

この砲は直射というだけあって米軍の上陸想定浜に砲台が向いている。米軍が上陸中、あるいは初期の橋頭堡を作っている間に、この砲台に設置されていた重砲で米軍の側面を狙い撃とうと考えたのだろう。
このような砲台跡と見られる跡は島の各所に存在している。

アーチ型に作られた砲室。この作りは本土のそれと変わりは無いように見える。

アーチ外側部分。かなりの厚みを持ったコンクリートの壁。米軍は上陸侵攻の際、戦艦からの支援射撃も行うので、築城はより頑丈にする必要があった。

この台座の上に砲が設置されていたのだろう。

砲室のすぐ脇にある入り口。

内部はコンクリートの小さな部屋。弾薬庫なのか、兵員の待避所なのかはわからない。奥に細い道が続いている。

この豪は湧き水があるらしく、床はだいぶ侵食されている。

砲室から奥に伸びる通路に進む。

広い通路から枝分かれした細い通路。ここに進む。

すぐに広い部屋。これは兵員の待機場所であろうと思う。

細い通路は奥に続いている。

さび付いた鉄杭が壁に突き刺さる。

非常に狭い通路。

通路は左に何回か枝別れしているが、崩落が激しく進めなかった。

土質が急にやわらかくなった。

この先はまだまだ続いているのだろうが、ここから水が流れ出しており、崩落も激しいので前進できず、来た道を引き返すことにした。

先ほどの広い通路の先。埋め戻しなどで封鎖されていた。この先は大阪トンネルの反対側の斜面に出るらしい。

砲室から道路を見る。

上陸想定浜方面を見る。白波が砕けては散りを繰り返していた。
この浜に米軍の大部隊が殺到してくることは、もうないだろう。
おまけ
上陸想定浜付近を散策中にトーチカらしきものを発見。

砲爆撃されたらひとたまりもなさそうだが、上陸想定浜を側射できるように作られているので、たぶん当時のものだろう。

内部の様子。

天井には空気の取り入れ口なのか、土管が突き刺さる。

今は穏やかな風が吹き抜ける海岸。

鉄の暴風が吹き荒れていた可能性もあったのだ。

事実と幻想は紙一重の場所で息を潜めているのである。

直射砲台の壕内図。縮尺や細部は適当です。
お詫びと訂正新年企画と称してよくわかる本土決戦を最後まで掲載する予定でしたが、時間が圧倒的に足りず、予定を変更して残りの二つの壕は後日改めて掲載しようと思っています。すいません。
次回からは、平常の廃墟物件を掲載する予定です。
にほんブログ村ランキング参加中。上のバナーを押していただくと大変うれしいです(^-^)
【掲載廃墟一覧】今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます
八丈島にはまだまだ行くよ!
- 2014/02/09(日) 09:33:14|
- 戦争遺跡・地下壕
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
今明かされる八丈島の大迷宮!鉄壁山司令部に潜入!八丈島要塞 鉄壁山地下司令部壕

知られざる八丈島地下要塞シリーズ!全回の
【神止山地下連隊本部壕】に引き続き、今回は【鉄壁山地下司令部壕】を紹介したい。
この鉄壁山司令部壕は前回の神止山本部壕の上位に位置する独立混成第67旅団司令部壕である。場所は島の南東方向に位置す東山(三原山)山中の通称鉄壁山に存在する。神止山本部壕と違い、この壕は整然と綺麗に作られており、さすが総司令部壕といった構造になている。
防衛道路と言われる林道から鉄壁山方面へと続く道へ入るところから紹介した。

まずはこの道を見つけることが困難であった。何しろ下見に来た深夜3時には全く分からなかったのだ。再度朝探索してやっと発見した。

整備された林道が続く。先へ進む。

やがて左に怪しい場所が現れた。

これが鉄壁山地下司令部壕の壕口である。早速潜入してみよう。

入ってすぐ、四角く掘削された通路が伸びる。

碍子もひとつ落ちている。

丁字路を左に進む。ここはかの稲川淳二も最恐の心霊スポットの一つとして紹介していたが、自分が入った時にはそのような現象は一切なかった。

右に通路があるが、そのまま直進する。

フックの付いた碍子。碍子は数えるくらいしか落ちていないが、電気が通っていたのは間違いない。

錆びついた包丁。なんでこんなものが。

先へ進む。

短く狭い閉塞部屋がある。

先ほど直進した場所まで戻る。そして右に進む。

回りこむような通路になっている。奥にコンクリート製の貯水槽が見えてきた。

綺麗に作られている。そういえば八丈島の地下壕はコンクリート製の構造物が多いような気がする。

全体像。

錆びついたかすがいが置いてあった。

通路がわかれている。左の暗がりに進む。

その前に、右の通路には腐った木柱が立っていた。

さっそく左の通路に進んでみよう。

小さな段差があり小さな階段がある。

階段下に丁字路がある。

丁字路左に進むとコンクリート製の立派な構造物があるようだ。

手掘りの通路から比べればだいぶ重厚だ。八丈島まで来たのはこのためなのだ!

コンクリート内部には鉄筋が入れられている。

壁に小さな小窓。

外を狙撃するための銃眼だ。

ここから外にでることができる。

外から見る。旅団司令部壕ともなるとホントにきれいな作りだ。

再び内部に入ってみる。すぐに倉庫のような部屋がある。

通路の先が見えるが行き止まりのように見える。しかし・・・

コンクリート製の壁に小さな穴。これは・・・!

はい。ついにたどり着きました。ここが旅団司令部壕の心臓部である。

敵の内部侵入を意識しての銃眼だろう。ここまできての戦闘は最後の最後までの敢闘精神の現れだろう。

コンクリート製の入り口から先へ進む。

驚いた。というより感動した。これがほとんど誰の目からも触れること無く、話題になることもなく、南海の孤島に存在する、これを奇跡と言わないでなんと言おうか。

壁から土砂がこぼれている。

ものすごく急な坂。この先山頂に続いているような気がするが、情報では閉塞しているみたいなので、今回は行かない。

天井には碍子のようなものは無いが、鉄の芯が出ている。
ちなみにこの部屋は司令部員の為の部屋と、経理を担当するための兵員の部屋のようだ。戦争であり、末期といえど、経済活動に変わりわなく、給料計算や雑費など、経理員が必要なのだ。

この壕は旅団司令部のわりには残留物がほとんどない。だが、少しばかりならあった。

これは当時旧軍が使用していた湯飲みのかけらだろう。これと同じような模様のものを見たことがある。

ここは経理員室である。

わずかに残る碍子のかけら。

この木材は60数年前からほとんど変わらずここにあり続けたのだろう。

奥へ奥へ。深淵のその先へ。

小さく区切られた部屋。

これはトイレの跡だろ言う。しかし、こんな場所にひとつだけトイレをつくるだろうか?

それなりに深い穴。落ちたら絶対に出てはこられないだろう。

その穴の上に穴。先は暗くどこまでも上に伸びている。

内部の様子。物音ひとつしない。

この先は核心部でも最重要な場所だ。

かまぼこ上の殺風景な部屋ここはかつて副官室、参謀部、司令官室があった場所だ。

ひとつ間違えば、ここは凄惨な自決の現場になっていたことだろう。

換気のための穴だろうか。

司令官室に開いている大きな穴。これはかつてテレビ局が開けた穴らしいが詳細は不明。

当時を偲ばせる光景。排水溝に木の板が乗せられている。

右の扉から入った。

左の扉に進む。

ここはコンクリートでできた核心部の最後の部屋だ。将校下士官室である。

入ってすぐガラスが散乱している。

この先は溶接された赤い鉄格子のために進めない。

鉄格子の先。急な下り坂が続いている。

仕方がないので右の出入り口に進む。

だが、土砂のためにすぐに閉塞していた。

もと来た道を戻る。

トイレがあった場所の正面に通路があった。崩壊している先へ進む。

いつ落盤してもおかしくない通路。

少し大きめの部屋。ここは弾薬庫だったらしい。

朽ち果てた弾薬ボックス。

これは当時の電池だ。掘り起こしたら見つかった。貴重なものだ。

これ以上の探索は無理なので、いったん外に出ることにした。

これは鉄壁山地下司令部壕で最もよく目にする資料のひとつだろう。出入り口のひとつである。

中へ入るとすぐに土砂で閉塞していた。

だがここに魅力的なものがある。

ここはトイレだというのだ。

もちろん戦闘のことを考えて銃眼が作られている。トーチカになっているのだ。

ここをみるとやっぱりトイレだ。

銃眼から外を見る。道を掃射できるように作られている。

銃眼を外から見る。

張り出し部分。

横長の銃眼。

位置関係。左に見えるのは唯一ふさがっていないコンクリートの出入り口。右に見えるのはトイレ兼トーチカ。

これは第三の出入り口。土砂で閉塞している。

いきなりだが、苦労して第三層部へ続く壕口を発見した。

早速先へ進む。

先には広い部屋。これは兵員の起居室だったらしい。

その先に長い通路。通路の先は外に繋がっている。

小さな部屋。この真ん中にあるのは。

火鉢だ。こんなものまであるのか。

通路を先に進むと小さな狭い入り口があった。

これ、わかりづらいがものすごく急な下り坂だ。これを降りて第三層部へ進む。

まだ続くの~

やっと通路の出口にたどり着いたようだ。

出てみると細い通路がある。ここが第三層部だ。

細い通路を進むと広い部屋に出た。

かなり広いフロア。

壁にあった大きな岩。どうやらでかすぎて取り出せなかったようだ。

ここは当時糧食庫だった。

ペットボトルの中に焼鳥と書かれた謎のメッセージ。正直理解に苦しむ。

あの赤い鉄格子は見覚えがある。

これも特徴的な遺構のひとつ。

天井が四角くぶち抜かれている。そういえば、子供が誤って地下壕の穴に落ちて亡くなる事故が八丈島では起きているらしい。もしや・・・

第四層部へいくにはこれまた急な坂をくだらなくてはならない。当時は階段だったものが、劣化して斜面になっているのだ。

斜面の出口に近づく。

そして、ついた。ここが第四層部だ。

ここには豊富な湧き水が出ている。そのせいで壕は侵食されている。

かまど。

この壕の炊事場だ。

ここがこの壕の最深部だ。

この場所は八丈島の水源のひとつとなっている。

外からの様子。頑丈に閉じられている。

いかがだったろうか。長らく放置され、その存在を知られてこなかった鉄壁山司令部壕の全貌をここで紹介でき、その魅力を知ってもらえれば幸いである。

では、原生林をかきわけ帰るとしよう。

鉄壁山地下司令部壕の壕内図である
縮尺や細部は適当である
にほんブログ村ランキング参加中。上のバナーを押していただくと大変うれしいです(^-^)
【掲載廃墟一覧】今までに掲載した廃墟の一覧へ飛べます
稲川順二もここに来ているよ。詳しくは【恐怖の現場 八丈島】で検索検索!
- 2014/01/14(火) 15:29:36|
- 戦争遺跡・地下壕
-
| トラックバック:0
-
| コメント:10