廃墟を旅する 

産業遺産や戦争遺跡、時を超えた郷愁への旅路へ・・・

【宿泊系廃墟】三州園ホテル

破壊の美学

三周園ホテル

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最初に誤解のないように言っておくと、廃墟への破壊行為を推奨しての破壊の美学ではない。廃墟を破壊する行為は最低の所業なので行わないように。だが、この三州園のように、すでに破壊されてしまっているなら、それはしかたあるまい。破壊という美学を堪能しなければもったいないというものだ。
今回はこの廃墟を見ていこう。


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この廃墟を見て一言目に出てきた言葉は「要塞」だった。まるで堅牢な要塞に見えたのだ。


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この三州園が廃墟になった理由と破壊は直接関係はない。廃業した理由は集団食中毒とそれに続く客足の遠のきだったようだ。そのあと長らく廃虚だったが、ある日何者かに放火された。
今では窓ガラスひとつ見当たらないようになってしまった。


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玄関を入ってすぐに放火による破壊の跡が目につく。


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壁は煤で黒く汚れている。


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壁紙も装飾品もドアもない。


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あまりにも寒々しく見るものもない。ように見えるが、この廃墟はこれでいいのだ。


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破壊の美学を見られる廃墟なのである。


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破壊の美学とはなんだ。といわれると説明にたいへん困る。自分も直感で感じている部分なのだ。だが、廃墟の美学も破壊の美学も同じような感覚なのだと思う。


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生まれたものがやがて使われなくなり、それが朽ちていく過程が廃墟なのだ。自分たちはその過程である廃墟が好きなのだが、破壊もその過程の中の一つの現象である。形あるものは必ず最後に無に還る。その最後に際して破壊されるものもあるだろう。その物の最後の表現の形を破壊が行った。そういう意味で破壊の美学と呼んでいる。


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この廃墟の今の形も破壊という現象により作られたものである。


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もしこの廃墟で放火が無かったらこの空間には出会えなかったろう。


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巨大な建造物であることが分かる。


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被害を受けていない場所もあるようだ。ここはメインの隣の宿泊施設。


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ホラー映画のようなエレベーターと階段。


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階段を上って最上階に行く。


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窓。


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下の様子。


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要塞のような作りの正面の建物。


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最上階についた。かつては景色を一望できるパノラマ風呂だったようだが、窓ガラスや外装などが無くなりそのまま景色が見られる状態になっていた。


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最初から最後まで、全て破壊された廃虚だった。

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廃墟の美学あります
  1. 2011/04/25(月) 17:14:17|
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【戦場遺跡・地下壕】沖縄海軍根拠地隊司令部壕

沖縄に散った幾万の英霊、県民に謝す

沖縄海軍根拠地隊司令部壕

前回の【第三十二軍司令部地下壕跡】【伊原第一外科壕】【宮古島の特攻艇秘匿壕】からの続きです。
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沖縄戦では主に陸軍部隊が主力になり守備に就いていた。だが陸軍だけでなく海軍部隊もまた沖縄の防衛任務にあたっていたのだ。これは、太田実海軍少将の指揮する沖縄根拠地隊約一万名ほどであり、一部陸軍の指揮下に入り戦闘を行なった。しかし、この部隊はもともと飛行場設営隊などであり、ろくな陸戦兵器は持たなかった。そこで飛行機用の機銃や銃剣を木の棒の先端に付けた槍など、創意工夫した武器を用いて戦った。
沖縄戦も終盤に入り首里が陥落すると、第三十二軍は南部に撤退するが、海軍部隊は司令部を置いている小禄から南部に撤退することを拒否する。これは米軍が奇襲上陸してしまったため、包囲されることとなり退路が遮断されたためである。海軍将兵は果敢に防衛戦を展開するが徐々に消耗し、6月13日頃に大田司令官以下参謀首脳部が自決、壊滅した。
この壕では発掘作業により、遺骨が八千体ほど見つかったそうだ。まさに足の踏み場もないほどだ。
上の図は小禄にあった海軍司令部壕の周辺で起きた戦闘の推移。米軍が上陸し退路が遮断されたのがわかる。これにより海軍部隊の戦線突破は不可能になった。(既存の図に筆者が書き足している部分がある。)


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現在の様子。ここは司令部壕の前にある慰霊碑である。


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実際に壕の中から発見されたもの。手前は日本軍の97式手榴弾。その後ろに見える丸いものは戦時急造の陶製手榴弾である。他に食器や薬缶など生活の跡がうかがえる。


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左は航空機用機関砲を取り外して使用したもの。右は銃剣を取り付けた槍。


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手榴弾各種。


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本題の地下司令部のほうに入っていこう。入口には千羽鶴が沢山かけてあった。


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壕内は電気が通っている。階段を下りて地下に行く。


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薄暗い通路。


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コンクリートでの補強は戦後に行われたものだろう。長い通路がある。
戦中、この通路には足の踏み場もないほどの戦死傷者で埋め尽くされていた。


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会議室。司令長官以下ここで作戦会議をした。


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当時の様子を絵にしたもの。


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碍子が残っている。この碍子の形は本土のものとなんら変わらない。


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また狭い通路を行く。


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この部屋は将校の部屋だったらしい。


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この看板の通りここで手榴弾自決が行われた。


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壁に残された傷跡は、手榴弾の破片によってできた自決当時のものである。かつて確実にここで誰かが死んだのだ。


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通路はまだ奥に続く。


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大田少将が自決した場所。壁には「醜米覆滅」と書いてある。

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別の角度から撮ったもの。


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大田少将の辞世の句が書いてある。
「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生れし甲斐でありけり」とある。


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兵員の詰めていた部屋。


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発電機がこの場所に置いてあったようだ。


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壕を掘削するときに使ったつるはし。


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棚などの窪み。


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兵員の待機所。ここで立ったたまま出撃を待った。


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この壕には未だに発掘できていない場所がいくつかある。そこではまだ遺骨が見つかるという。



以上である。
4回にわたって沖縄戦の特集をしてきたがいかがだったろうか。沖縄戦では日米将兵の間で激戦が演じられ多くの人命が失われた。さらに沖縄県民を巻き込んでしまったため、県民に犠牲者が出たばかりか、戦後に続く遺恨を生んでしまった。
この戦争で多くの物語が生まれた。しかし、その多くは風化しつつある。この事実を忘れ去ってしまったらいったいなんのために沖縄で多くの人間が死んだのか分からなくなってしまう。この事実を語り継ぐことが後世に生きる我々の務めであり、戦死者への供養なのだと思う。国のために、故郷のためにと戦って死んだ多くの人間がいたことを忘れてはならない。
最後に、海軍司令部壕で自決した大田司令官が本土の海軍次官に送った決別電報の一説を紹介したい。
大田司令官はなによりも県民が軍に率先して協力してくれたこと、また県民に多大な損害が及んでしまったことといった内容の電報を送っている。そしてその最後はこう締めくくられる。

沖縄県民斯ク戦へリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


現代に生きる我々は、この言葉を忘れてはいまいか。
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慟哭の島
  1. 2011/04/20(水) 20:09:25|
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【戦争遺跡・地下壕】宮古島の特攻艇秘匿壕

美しい島にも戦跡あり

宮古島の特攻艇秘匿壕

前回の【第三十二軍司令部地下壕跡】【伊原第一外科壕】から引き続き沖縄戦です。
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沖縄南西諸島の南の果ての方に宮古島という綺麗な島がある。島は隆起サンゴ礁の石灰質で出来ており、美しい海とさとうきび畑が一面に広がり、島民は穏やかに暮らしている。
そんな島にも戦跡はある。戦争はこの島にも影響を与えたのだ。
この島には沖縄を守備していた第三十二軍のうちの第二十八師団が守備に就いていた。飛行場も三つあり重要な拠点の一つだったのだ。そこに米軍は1944年10月10日に艦載機による空襲を敢行した。以後度重なる空襲で宮古島は大きな被害をこうむることになった。
そのような戦争の歴史を伝える戦跡だが、ここにあるのは末期の日本軍が取った「統率の外道」たる戦術、特攻のために使われた兵器を秘匿するために使用されていた秘匿壕である。その兵器とは特攻艇「振洋」である。


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振洋とは海軍の特攻艇のことである。これは簡単にいうとモーターボートで、爆薬を積んでおり、海上を疾走して敵艦に激突し爆発するというものである。
上の図は秘匿壕の大まかな位置と、パイナガマビーチにあるトーチカの銃眼の位置である。


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宮古島パイナガマビーチ


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夕方のビーチはなんともいい雰囲気であった。
このビーチは米軍の上陸地点になると予想されており、そのためトーチカが築城された。


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砂浜に埋まるようにしてトーチカがあった。銃眼は砂浜を側射できるように出来ている。見た感じガマの内部をコンクリートを使ってトーチカにしたのだろう。


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内部をてらしてみる。


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内部は部屋になっている。残念ながらこの部屋に入るための壕口を発見することはできなかった。


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夜になった。宮古島にはハブなどの毒蛇がいないらしい。なので探索の際気にする必要はなかった。


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30分ほど歩いたろうか、突然壕が現れた。


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これは探さないと絶対見つからないだろう。人通りも全くない道の端にあった。


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内部に入ってみた。内部は四角に掘削されている。


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振洋を射出する際に用いたと思われるレーンの後だろうか。


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レーン跡は壕の後部まで続いていた。


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壕内部より外を見る。


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壕後部左側に通路があった。少し崩落している。


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通路を進むと同じ規模の壕があった。この秘匿壕は二つの同じ規模の壕を通路でつないでできているようだ。
と、気になるものがある。


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この入口の石積みは人為的なものだ。これは敵の手榴弾攻撃などから壕を守るために積んだものらしい。直接的な米軍の上陸があり得る状況であった宮古島では、このように臨戦態勢が取られていたのだ。


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さっきのとは別の壕がすぐ隣にあった。


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この壕はかなり崩落している。形状は先ほどの壕と同じだった。


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もはや命がけの状況にある。
この一帯には崩落が激しく入れない壕も含め11個の秘匿壕が確認できた。
観光の島宮古でも、66年前には戦争という現実に翻弄されていたのである。



次回予告
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沖縄戦跡特集4回目となる次回で最終回です。
次回は、「沖縄海軍根拠地隊司令部壕」です。

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暑い夏の日の記憶
  1. 2011/04/15(金) 01:31:20|
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【戦争遺跡・地下壕】伊原第一外科壕

風化する戦争

伊原第一外科壕

前回の【第三十二軍司令部地下壕跡】から引き続き沖縄戦です。
キャプチャkkiii
「ひめゆりの塔」というものを一度は必ず聞いたことがあるだろう。だが、この「伊原第一外科壕」というものを聞いたことはほとんど無い事と思う。実は、沖縄戦終盤の南部方面の戦いでひめゆり部隊が活動していたのは、なにもひめゆりの塔がある「第三外科壕」だけではないのである。
ひめゆり部隊の事を簡単に紹介すると、沖縄戦に伴い軍と行動をともにした女学生部隊のことで、主に医療活動や水汲み、物資運搬と後方のあらゆることに従事していた。45年5月中盤に首里が陥落すると、第三十二軍は沖縄南部への撤退を決定する。これに伴いひめゆり部隊も南部に移る。その後も医療活動などに従事していたが、6月18日に突如解散命令が下る。翌日島の北部に脱出を図る寸前、第三外科壕(ひめゆりの塔がある壕)は米軍に包囲されてしまう。米軍は壕に黄燐手榴弾を投げ込む。中にいた学徒隊とその教師ら96名中87名が窒息死した。沖縄戦で戦死したひめゆり部隊の総数は240名中136名だった。
最も大きな被害を出した第三外科壕には、戦後ひめゆりの塔が建立された。それにより現在でも有名なのである。しかし、先にも述べたように、ひめゆり部隊の活動していた壕は、他にも存在するのだ。
上の図は伊原第一外科壕の場所である。


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まずここは第三外科壕である。非常に有名。


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この穴の中で学徒隊は戦死した。中は暗く底は見えない。


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話によればここも壕なのだそうだ。だが入口らしきものは無かった。


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一面のさとうきび畑。


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このようななんの変哲もない畑の下には、未だに掘り起こされない戦死者の遺骨が沢山眠っている。


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観光地と化しているひめゆりの塔に自分は違和感を覚えた。なので集団から抜け出し一人近くを探索する事にした。すると、ちょっといった場所は本当に静かな沖縄の原風景があった。



第一外科壕と書かれた道標は、そんな人気のない道端にポツンとあった。


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ここが第一外科壕である。ここは人の手で掘られた壕ではない。自然壕なのだ。このような壕をガマという。沖縄にはこのガマがいたるところに存在し、抵抗拠点になったり避難壕になったりしている。


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階段が下に伸びていた。ひめゆりの塔からここまで来る間誰ひとりとして見ていない。無論この壕にも一人もいない。


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入口に何かある。


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折りヅルと花があった。この壕でも女学生が数名亡くなっているようだ。



壕口は非常に狭い。


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中の様子である。見てわかる通り湿気が凄く水蒸気が立ち込める。季節は11月だというのにかなり熱い。汗が噴き出る。


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もっと内部に入ろうと思ったが無理だった。泥濘が先を塞いでいた。


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沖縄戦があったのは4月から6月、この壕が使われ始めたのは雨季の5月ころだろうから、当時もこのような暑さと湿気の中、この壕で何人もの戦傷兵の手当てを女学生が行っていたのだろう。


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壕口から外を見上げると外の光がまぶしく感じられた。



この景色は当時と全く変わらない。同じ景色を今見ている。


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ひめゆりの塔が観光地化している一方、この壕はほとんど人目に点くこともなく存在してた。平和の祈りを行なう場所ということは同じことだろうに、この空気の乖離に自分は驚いた。
このような光景は沖縄のいたるところで存在している。それはこの島があの戦争を忘れようとしていることなのだろうか。しかし、忘れたくても忘れられない記憶がそこかしこにある。


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沖縄に来たら少しでもこの空気に触れてもらいたい。かつてそこで戦争があったのだということを思い出すために。

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語り継ぐ戦争
  1. 2011/04/09(土) 16:32:29|
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【戦争遺跡・地下壕】第三十二軍司令部地下壕跡

沖縄県民斯ク戦エリ

第三十二軍司令部地下壕跡

今から66年前の今日。追い詰められた大日本帝国の命運をかけた日本本土決戦、その前哨戦たる決戦、沖縄戦が開始されてすでに5日たった。
米軍は4月1日の上陸からここまで、さしたる損害もなく、「ジャップはすでにみんな死んでいる」と思ったほどだ。だが、日本軍の遅滞戦闘が終了し、米軍が日本軍の主防衛陣地に突撃した時、その考えが甘すぎたことを、その命を持って痛感する兵士が続出した。
日米最後の大激戦、沖縄戦が始まろうとしていた。

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1945年、開戦からここまでで、大東亜戦争はすでに4年目に入ろうとしていた。初戦こそ華々しい連戦連勝を重ねた大日本帝国だったが、42年の5月の珊瑚海海戦、それに続く6月のミッドウェー海戦、さらに8月の米海兵隊ガダルカナル上陸と、半年を過ぎて初戦の痛みと混乱から立ち直った米軍の反攻により、その連勝はストップし、43年にはガダルカナルから撤退、その年の11月には米軍はギルバート諸島に進攻、翌年にはマーシャル諸島、ニューギニアと歩を進め、44年には、日本が絶対国防圏と定め、要塞化されたマリアナ諸島に進攻、サイパン島を7月に占領、さらに、反撃にでた日本海軍空母機動部隊を撃滅、同年の暮れには、フィリピンに対し進攻し、果敢に決戦を挑んできた日本海軍を撃退、そして、日本本土への爆撃を行いながら、45年の3月には激戦の末硫黄島を占領、日本本土への進攻の機会をうかがっていた。
米軍が日本本土への進攻に際して、その膨大な物量の集積場と、艦隊の泊地、航空機の発進拠点を求めた。そして選ばれた次なる戦場が沖縄だった。
米軍は第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将を総司令官に任命し、正規空母19、戦艦10など艦艇1457隻、艦載機1200機、総兵力45万2千名を要し、沖縄に進攻した。
対する日本軍の沖縄守備部隊は、牛島満陸軍中将を司令官とした陸軍第三十二軍11万人だった。これには防衛招集された沖縄県民2万5千人と、中学生などで結成された鉄血僅皇隊2千名、さらに、学徒女学生で結成されたひめゆり部隊などが充てられている。守備部隊は徹底した地下陣地の構築を行ない、米軍の莫大な物量に対抗しようとした。そして、水際迎撃を捨て、内陸に入ってきた敵を陣地戦で迎え撃とうと考えた。その結果、米軍は4月1日の上陸の際には、ほとんど抵抗を受けなかった。だが、本土からの救援はもとより、制海・制空権ともに無く、残されていたのは、玉砕するまで絶望的な戦闘を続けることしかなかった。これには、計画されていた本土決戦を有利に行うため、本土の陣地築城をより多く行えるようにとの、時間稼ぎ的な考えがあった。沖縄は、言い方は悪いが、軍民問わず、本土の捨て石にされたのだ。
上の図では、米軍がどこに進攻してきたかがわかる。まず、米軍は艦隊泊地となる慶良間列島に上陸し、同島を占領、4月1日、沖縄本島嘉手納に上陸し、沖縄北部と、南部に進攻を開始した。


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米軍主力軍は、サイモン・B・バックナー陸軍中将率いる第10軍4個師団であり、海兵隊2個師団は本島北部へ、陸軍2個師団が日本軍の主要抵抗陣地があり、第三十二軍司令部のある南部へ進攻した。
第三十二軍司令部は首里の首里城地下に構築してあり、砲爆撃に耐えられるようになっていた。


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日本軍主要陣地帯では、主に「反斜面陣地戦法」というものが使われていた。これは、敵進攻正面ではなく、敵の砲爆撃中は陣地斜面の反対側で待機し、敵が進攻を開始したら出てきて、高地の稜線から射撃を行い敵を倒す方法であり、さらに、各陣地は相互支援可能なようにできており、一種ソ連軍のパックフロントのような状態にあり、どのように攻めてきても火網にとらえることができた。これにより米軍の進攻は大損害を出し、米軍をして、「日本軍の戦闘は、歩兵戦闘の極み」と言わしめたほどだ。中でも、「嘉数高地対戦車戦」は、圧倒的な戦車戦力を誇る米軍機甲部隊に対し、歩兵主体の日本軍が巧みな陣地戦を展開し、理想的な歩戦分離を行なって、米軍機甲部隊に大損害を出させた。第一線主要陣地は、嘉数高地、西原高地、棚原高地、そしてウシクンダ原を結ぶ線で構成されていたといえよう。
だが、日本軍の巧みな陣地戦闘も、徐々に消耗をしていき、首里全面の攻防戦に入る。5月中旬には、戦史に名高い安里52高地(米軍名・シュガーローフ)戦が発生し、首里を巡る激戦が起こる。だが、これらの陣地が陥落すると、第三十二軍は島のさらに南部、喜屋武方面への撤退を決定。さらに戦闘は継続することになる。


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では、前置きはここまでとして、第三十二軍司令部地下壕跡を見ていこう。写真は首里城の守礼門である。

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首里城は沖縄戦の際に、米軍の砲爆撃を受け壊滅。戦後修復されたものだ。ちょっと壁に目をやると銃撃で空いた穴等が見られる。実は沖縄の各地にはこのような戦争の跡が数限りなくあるのだ。ここが本土の戦争遺跡と決定的に違うのは、実戦を行なったということである。空襲はあったが、弾雨飛び交う激戦はついに起こらなかった。


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世界遺産である首里城は平日でも人が沢山いる。だが、この第三十二軍司令部地下壕跡には、めったに人は来ない。目立たない場所にあることもそうだが、これ自体知っている人があまりいないのだろう。


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爆撃に耐えられるようにコンクリートで頑丈に作られている。


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残念なことに中には入ることが出来ない。中は崩落が激しいらしい。米軍の爆破によるものだという。この司令部壕では、沢山の戦死体が収容されている。


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鉄柵の隙間より内部を撮る。


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木の根が張っている。こうやって浸食されいき、最後には破壊されてしまうのだろう。


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別の壕入口。


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米軍に爆破された跡が見て取れる。


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三つ目の入り口。


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無線所跡と書いてある。中がどうなっているのか見てみたいが。


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ひっそりと忘れ去られた戦争がここにあった。


おまけ
沖縄戦の写真です。


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敵情をうかがう米兵と破壊された神社。


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日本軍の無線通信所。


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廃墟と化した街。


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米軍のM4戦車。左上の狛犬は現存する。


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日本海軍の12.7センチ高角砲と思われる。


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日本兵の遺体が転がる。


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破壊された物資集積所。


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教会も破壊された。


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日本軍の破壊された特火点。このように堅牢な陣地が構築されていた。

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失われた戦争の記憶
  1. 2011/04/05(火) 19:26:58|
  2. 戦争遺跡・地下壕
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