沖縄県民斯ク戦エリ第三十二軍司令部地下壕跡
今から66年前の今日。追い詰められた大日本帝国の命運をかけた日本本土決戦、その前哨戦たる決戦、沖縄戦が開始されてすでに5日たった。
米軍は4月1日の上陸からここまで、さしたる損害もなく、「ジャップはすでにみんな死んでいる」と思ったほどだ。だが、日本軍の遅滞戦闘が終了し、米軍が日本軍の主防衛陣地に突撃した時、その考えが甘すぎたことを、その命を持って痛感する兵士が続出した。
日米最後の大激戦、沖縄戦が始まろうとしていた。

1945年、開戦からここまでで、大東亜戦争はすでに4年目に入ろうとしていた。初戦こそ華々しい連戦連勝を重ねた大日本帝国だったが、42年の5月の珊瑚海海戦、それに続く6月のミッドウェー海戦、さらに8月の米海兵隊ガダルカナル上陸と、半年を過ぎて初戦の痛みと混乱から立ち直った米軍の反攻により、その連勝はストップし、43年にはガダルカナルから撤退、その年の11月には米軍はギルバート諸島に進攻、翌年にはマーシャル諸島、ニューギニアと歩を進め、44年には、日本が絶対国防圏と定め、要塞化されたマリアナ諸島に進攻、サイパン島を7月に占領、さらに、反撃にでた日本海軍空母機動部隊を撃滅、同年の暮れには、フィリピンに対し進攻し、果敢に決戦を挑んできた日本海軍を撃退、そして、日本本土への爆撃を行いながら、45年の3月には激戦の末硫黄島を占領、日本本土への進攻の機会をうかがっていた。
米軍が日本本土への進攻に際して、その膨大な物量の集積場と、艦隊の泊地、航空機の発進拠点を求めた。そして選ばれた次なる戦場が沖縄だった。
米軍は第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将を総司令官に任命し、正規空母19、戦艦10など艦艇1457隻、艦載機1200機、総兵力45万2千名を要し、沖縄に進攻した。
対する日本軍の沖縄守備部隊は、牛島満陸軍中将を司令官とした陸軍第三十二軍11万人だった。これには防衛招集された沖縄県民2万5千人と、中学生などで結成された鉄血僅皇隊2千名、さらに、学徒女学生で結成されたひめゆり部隊などが充てられている。守備部隊は徹底した地下陣地の構築を行ない、米軍の莫大な物量に対抗しようとした。そして、水際迎撃を捨て、内陸に入ってきた敵を陣地戦で迎え撃とうと考えた。その結果、米軍は4月1日の上陸の際には、ほとんど抵抗を受けなかった。だが、本土からの救援はもとより、制海・制空権ともに無く、残されていたのは、玉砕するまで絶望的な戦闘を続けることしかなかった。これには、計画されていた本土決戦を有利に行うため、本土の陣地築城をより多く行えるようにとの、時間稼ぎ的な考えがあった。沖縄は、言い方は悪いが、軍民問わず、本土の捨て石にされたのだ。
上の図では、米軍がどこに進攻してきたかがわかる。まず、米軍は艦隊泊地となる慶良間列島に上陸し、同島を占領、4月1日、沖縄本島嘉手納に上陸し、沖縄北部と、南部に進攻を開始した。

米軍主力軍は、サイモン・B・バックナー陸軍中将率いる第10軍4個師団であり、海兵隊2個師団は本島北部へ、陸軍2個師団が日本軍の主要抵抗陣地があり、第三十二軍司令部のある南部へ進攻した。
第三十二軍司令部は首里の首里城地下に構築してあり、砲爆撃に耐えられるようになっていた。

日本軍主要陣地帯では、主に「反斜面陣地戦法」というものが使われていた。これは、敵進攻正面ではなく、敵の砲爆撃中は陣地斜面の反対側で待機し、敵が進攻を開始したら出てきて、高地の稜線から射撃を行い敵を倒す方法であり、さらに、各陣地は相互支援可能なようにできており、一種ソ連軍のパックフロントのような状態にあり、どのように攻めてきても火網にとらえることができた。これにより米軍の進攻は大損害を出し、米軍をして、「日本軍の戦闘は、歩兵戦闘の極み」と言わしめたほどだ。中でも、「嘉数高地対戦車戦」は、圧倒的な戦車戦力を誇る米軍機甲部隊に対し、歩兵主体の日本軍が巧みな陣地戦を展開し、理想的な歩戦分離を行なって、米軍機甲部隊に大損害を出させた。第一線主要陣地は、嘉数高地、西原高地、棚原高地、そしてウシクンダ原を結ぶ線で構成されていたといえよう。
だが、日本軍の巧みな陣地戦闘も、徐々に消耗をしていき、首里全面の攻防戦に入る。5月中旬には、戦史に名高い安里52高地(米軍名・シュガーローフ)戦が発生し、首里を巡る激戦が起こる。だが、これらの陣地が陥落すると、第三十二軍は島のさらに南部、喜屋武方面への撤退を決定。さらに戦闘は継続することになる。

では、前置きはここまでとして、第三十二軍司令部地下壕跡を見ていこう。写真は首里城の守礼門である。

首里城は沖縄戦の際に、米軍の砲爆撃を受け壊滅。戦後修復されたものだ。ちょっと壁に目をやると銃撃で空いた穴等が見られる。実は沖縄の各地にはこのような戦争の跡が数限りなくあるのだ。ここが本土の戦争遺跡と決定的に違うのは、実戦を行なったということである。空襲はあったが、弾雨飛び交う激戦はついに起こらなかった。

世界遺産である首里城は平日でも人が沢山いる。だが、この第三十二軍司令部地下壕跡には、めったに人は来ない。目立たない場所にあることもそうだが、これ自体知っている人があまりいないのだろう。

爆撃に耐えられるようにコンクリートで頑丈に作られている。

残念なことに中には入ることが出来ない。中は崩落が激しいらしい。米軍の爆破によるものだという。この司令部壕では、沢山の戦死体が収容されている。

鉄柵の隙間より内部を撮る。

木の根が張っている。こうやって浸食されいき、最後には破壊されてしまうのだろう。

別の壕入口。

米軍に爆破された跡が見て取れる。

三つ目の入り口。

無線所跡と書いてある。中がどうなっているのか見てみたいが。

ひっそりと忘れ去られた戦争がここにあった。
おまけ沖縄戦の写真です。

敵情をうかがう米兵と破壊された神社。

日本軍の無線通信所。

廃墟と化した街。

米軍のM4戦車。左上の狛犬は現存する。

日本海軍の12.7センチ高角砲と思われる。

日本兵の遺体が転がる。

破壊された物資集積所。

教会も破壊された。

日本軍の破壊された特火点。このように堅牢な陣地が構築されていた。
にほんブログ村失われた戦争の記憶
- 2011/04/05(火) 19:26:58|
- 戦争遺跡・地下壕
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
内容がわかりやすく、まとめてあったので見やすかったです!
- 2012/05/26(土) 19:32:56 |
- URL |
- ( ´ ▽ ` )ノ #-
- [ 編集 ]
親戚に沖縄出身の叔父がいます。叔父のは90歳になります。叔父の話では首里城地下道は浦添え迄続いているそうです。
- 2016/12/04(日) 21:20:03 |
- URL |
- まり #-
- [ 編集 ]