場所は神奈川県の稲村ケ崎、ここに特攻という非日常が存在します。伏龍洞窟陣地

神奈川県の観光名所の一つに稲村ケ崎という岬があります。とても見晴らしがいい景勝地で、江の島やビーチが一望できます。休日などは沢山の観光客が訪れます。ですが、この稲村ケ崎の裏の顔を知っている人はあまりいません。
太平洋戦争末期、迫りくる米軍の本土上陸に備え、この地に特攻出撃基地が建設されました。

まず伏龍とは何か?上の写真が「人間機雷伏龍」です。(写真はネットから)
伏龍は数ある特攻戦術の中でもひときわお粗末で臨時的で、大日本帝国はここまで追い込まれていたのか、と思ってしまうものです。それはもはや兵器とも呼べないものかもしれません。
1944年、本土決戦が迫る中、伏龍は誕生します。それはどのようなものかというと、隊員は潜水服を身にまとい、竹竿の先端に爆雷をつけた棒機雷を持って陣地より歩いて沖合まで行って展開し、敵の上陸用舟艇が真上を通過したらその船底に棒機雷を突き刺すようにし、その瞬間に信管が作動して機雷が爆発し、持っていた隊員も爆死するというものでした。
本土決戦の際は米軍艦艇に対しては、水際の陣地に隠れていた特攻兵器である「震洋」や「回天」が受け持ち、水際の防衛にはこの伏龍が使われることになっていました。
しかし、訓練中に事故が多発し、数十名の殉死者を出してしまい、結局は作戦放棄された戦術です。
その伏龍の陣地が稲村ケ崎に作られていたのです。


海岸を少し歩いて行くと岩肌に上のような穴があります。(下は穴の拡大写真です。)これは中に秘匿してある機銃うや大砲の砲身を出して、敵に撃てるようにしてある銃眼です。連合軍の上陸用舟艇を側面から撃てるようになっているのでしょう。

銃眼の隣に陣地の壕口がありました。出撃はここからしたのでしょうか。海とつながっています。

さっそく中に入ってみます。

中に入るとすぐに岩が沢山出てきました。

崩れているところはあまりありません。頑丈な地質のおかげでしょう。

T字路が現れました。右に行ってみます。

右の道は海に直結していました。その先はありません。

では、さっきのT字路のところを左に行く道に行きます。それにしても長い年月がたったとは思えないほど綺麗です。

直進した通路の先は左に曲がっていました。

いくつかの曲がり角やT字路がありました。矢印の方向に進みます。

しかし、ここで道はふさがれていました。
ここまで来る間に通路しかなく、伏龍隊員が待機したであろう部屋等は確認できませんでした。この先にそれがあったのか、または作りかけで放棄してしまったのか、それはわかりません。それと、銃眼に通じる通路も発見できませんでした。

入口まで戻ってきました。子供連れの親子がいます。

洞窟から出て、稲村ケ崎を少し散策してみると沢山の壕口が発見できました。


上の写真の壕口もふさがれていましたが、小さな穴からカメラを入れて撮影すると、その先に洞窟陣地があることが確認できます。(下の写真は拡大されます。)
探索を終えての感想
稲村ケ崎という場所は有名な観光地です。しかし、少し眼を向けてみると戦争という歴史が見えてきます。
「特攻は統帥の邪道、統率の外道」と特攻戦術の創始者である大西瀧次郎海軍中将も言っているとうり、生還が全くできないというこの戦術は極限まで追い詰められた状況下であっても、採るべき戦法ではなかったと思います。しかし自分は、「特攻で戦死したいかなる人間も国の最高の誉れであり、国家のために散った崇高な魂であり、その栄誉は日本の誇りである」と思っています。
伏龍は出撃しませんでしたが、特攻戦術というものがかつて行われたのだということを今回の戦争遺跡は語っています。
テーマ:廃墟系 - ジャンル:写真
- 2010/10/25(月) 04:13:09|
- 戦争遺跡・地下壕
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ご苦労様でした!
かなり楽しかったです。いろいろ話も聞けたし、いい一日でした。
横須賀探索もご一緒できたら嬉しいです!
- 2010/11/08(月) 07:19:21 |
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- みょん #-
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